小金井橋碑
小金井橋の歴史は古く、承応二年(一六五三)、玉川上水が開かれた時に架けられたものと思われます。やがて小金井堤が桜の名所となると「金井橋」・「黄金井橋」「金橋」などとも呼ばれ、歌川広重らが錦絵や挿絵に描きました。 安政三年(一八五六)に木橋から石橋に架け替えられ、明治時代以降も名勝の中心として多くの写真や絵画にその面影を見ることができます。明治三年(一八七〇)から五年にかけて玉川上水に通船が行われ、その時の船溜が小金井橋の上流左岸にありました。
小金井橋は、昭和五年(一九三〇)に近代的なレンガ造のアーチ橋に架け替えられ、小金井桜とともに地域のシンボルとして親しまれてきましたが、平成二十年(二〇〇八)、都道拡幅によりレンガ橋はその役割を終えました。
このレンガと要石は、旧小金井橋の一部を記念に残したものです。
玉川上水堤の桜並木(小金井桜)は、江戸近郊随一の花見の名所として知られ、多くの著名な文人墨客等が訪れました。 武士はしばしば騎馬で遠乗りを行い、文政九年(一八二六)には越前丸岡藩主有馬
誉純(なずみ)、天保十四年(一八四三)には老中水野忠邦等一行が花見に来ています。
天保十五年(一八四四)旧暦二月二十五日(四月十二日)、第十三代将軍家定(当時世継) 一行が花見に訪れました。家定側近の紀行文によると、当日はあいにく大雨でしたが、家定は馬から下りて堤を歩き、御座所を設けて花見の宴を催しました。
この家定の御成りを記念して里人が御座所跡に一本の黒松を植え、「御成の松」と呼ばれてきました。見事な枝ぶりでしたが、惜しくも平成六年に枯れました。ここはその跡です。
◆名勝小金井桜
小金井堤の桜は、元文二年(一七三七)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を・取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。これは、新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。
植樹されておよそ六十年後の寛政九年(一七九七)、多摩地城 (現東大和市)出身の漢学者大久保狭南が 「武蔵野八景」の一つとして世に紹介すると、江戸からの花見客が増え、佐藤一斎『小金井橋観桜記』や大田南畝 『調布日記』など文人による紀行文等に登場するようになりました。特に初代歌川広重が描いた「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」などによって富士山を背景とし、 玉川上水に映える桜並木の風景が有名になりました。天保十五年(一八四四)の将軍世子(のちの十三代将軍家定)の観桜を契機に、幕府の命により近隣村々によって大規模な補植が行われ、桜並木の景観が整いました。
明治十六年(一八八三)には、明治天皇が騎馬で行幸されるなど、関東第一の桜の名所として、西の吉野と並び称され、明治二十二年(一八八九) 四月十一日、甲武鉄道が開通すると、いっそう多くの花見客で賑わいました。
小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど一本一本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正十三年(一九二四)十二月九日「史蹟名勝天然紀念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正二年(一九一三)に設立された「小金井保桜会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。
戦後、名勝小金井 (サクラ)は、樹木の老化や周辺の都市化などによって年々衰えましたが、平成十五年(二〇〇三) 八月二十七日に玉川上 史跡に指定されたことを契機に、東京都地元自治体・市民団体の協働により、吉野や桜川等の系譜を引き継ぐ山桜の苗が補植され、名勝小金井の桜並木の再生 復活が図られます。
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