2023/10/05 妙法寺



 江戸時代の享保七年(1722)に始まった武蔵野の新田開発は、凶作などにより開発が進まず農民は窮乏し、餓死者が続出していました。 元文四年(1739) 武蔵野新田世話役となった押立(おしだて)村(現在の府中市)名主川崎平右衛門は救助の食糧、養料金(ようりょうきん)(凶作に備えて各家から穀類三升、のちに五升を集め売却し、その代金を商人に貸付け、利息を農民に配当するという制度) 肥料、種の支給や用水、井戸の工事などを行い、新田の安定をはかりました。
 川崎平右衛門は寛保三年(1743)に支配勘定格(かんじょうかく)となり寛延二年(1749)に美濃国(現在の岐阜県)へ支配替えになった後、宝暦四年(1754) 代官となりました。 平右衛門のあとにこの地の代官となった伊奈半左衛門も、平右衛門の政策を継ぎ、さらに養料金制度をおし進めました。このため、武蔵野の開発は大いに進展し、その功績を記念するため、寛政十一年(1799) 榎戸新田名主(えのきどしんでんなぬし)源蔵らの主唱によって武蔵野新田八十数ケ村の感謝の結晶として建立されたものです。




◆宝篋印塔




◆石塔




◆鐘楼




◆山門




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