2023/11/05 蓮華院




 木立に囲まれて建つ蓮花院では、一年中、鳥の声を聞くことができます。正面にあたる観音堂は、正面五間(ごけん)、奥行き六間の総欅(けやき)、方形(ほうぎょ)造り瓦ぶきの屋根を持った大規模な建築で、虹梁(こうりょう)や欄間(らんま)に見られる彫刻は精巧なものであります。




観音堂


木造千手觀音菩薩立像(もくぞうせんじゅかんのんぼさつりゅうぞう)

 蓮華院観音堂の本尊(秘仏)で、頭頂から足元までは像高104.5cm、頭部に十一個の変化面(へんがめん)をそなえ、正面中央の合掌手(がっしょうしゅ)・宝鉢手(ほうはっしゅ)の四臂(じ)を含め四十二臂の千手観音像である。頭髪に群青彩(ぐんじょうさい)、髭(ひげ)・眉(まゆ)に墨彩、ロ唇に朱彩を施す以外は、木の肌を生かした素地仕上げの像で、目及び眉間上
の白毫(びゃくごう)には水晶を嵌め込んでいる。
 榧(かや)の一材で造られ、頭部・体部を前後に縦割りして像内を内刳(うちぐ)りし、再び矧(は)ぎ合わせた割矧(わりは)ぎ造の構造を用い、また、頭部は三道(さんどう)(首の三本のしわ)下に鑿(のみ)を入れて体部と割り放ち、再び接合した割首(わりくび)の技法をとっている。宝髻(ほうけい)・頭上面・脇手(わきしゅ)・合掌手(がっしょうしゅ)・足先等の細部は別材としている。
 像内に残る銘札には、前年焼失した本尊を、天文(てんぶん)十六年(1547)に根岸(現狭山市) 光明院の法印覚重が願主になり、鎌倉仏師長慶(ちょうけい)が再興した旨が記されている。
 この千手観音菩薩立像は、秀麗な面貌を持ち、保存状態も良好で、市内に残る中世仏の中にあっては、造立(ぞうりゅう)事情、制作者、制作年を明らかにする基準的な作品として文化財的価値が高い。


蓮花院觀音堂付勸進(かんじん)帳

 蓮花院は、鎌倉時代のはじめに歌人としても知られた寂蓮法師が開いたと伝えられている黒須の名刹である。寺の記録によると、現在の観音堂天保六年(1835)に再建されたもので、桁行(けたゆき)三間梁間(はりま)四間総けやき、寄棟造り桟瓦葺きの堅固で大規模な建造物である。虹梁や欄間に見られる彫刻は精巧なものであり、内陣の格天井(ごうてんじょう)には格間(ごうま)一六五枚に江野梅青(えのばいせい)(東松山市出身)の手になる花鳥の色彩絵が描かれている。 画題は花鳥六八点、花木七九点、鳥一八点で、それぞれに寄進した当地黒須の人々の名前一五〇余人が墨書されている。また、須弥壇(しゅみだん)両脇の天井に描かれた飛天の天井絵は梅青の養父江野楳雪(ばいせつ)(東松山出身)の手になるものであり、外陣の鏡天井に描かれた龍は市内宮寺出身の画家吉川緑峰の筆になるものである。
 勧進帳は、「観音堂再建勧化牒(かんげちょう)」と題され、その序文に蓮花院の縁起と観音堂再建発願の主旨を記している。 天保四癸巳年十二月二十三日に発願されたものであり、願主現住隆光、隱居隆寶、世話人繁田武兵衛他四人、組頭水村卯兵衛他五人のほか寄付者の名前が多数記されている。


蓮花院の鰐口(わにぐち)

 蓮花院の鰐口は直径約38cm、厚さ約10cm、重さ約5.25kg、古色をおび重量感にあふれた室町中期(寛正二年1461年)の作品である。この鰐口の表裏には銘文が刻まれており、これによると釜形四郎五郎が小用村(比企郡鳩山町)の鋳物師松本に造らせ、比企郡の千手堂に奉納したものらしい。
 蓮花院伝来の理由は定かではなく、『新編武蔵風土記稿』の黒須村の項にも鰐口の所在について 「比企郡千手堂村(現比企郡嵐山町千手堂)にある千手堂のものなるべけれどここに持ち来りしゆえんは知らず」と記している。かつて蓮花院の付近にあった真観寺の井戸から引き上げられたという伝承が残っている。




彰義隊(しょうぎたい)遭難者の碑付(つけたり)地蔵



 この地蔵は、扇町屋で起きた彰義隊士殺害事件の後、村人が隊士たちを供養するために建立したものである。
 当初は、県立豊岡高等学校正門付近に建っていたが、道路拡幅工事など度重なる移転の末、今は当蓮花院に他の無縁仏とともに安置されている。
 台石には正面に「北 くろすみち」、右面に「西町屋道」、左面に「東いりま川道かわこえ道」、裏面に「南とうきょう道」と刻まれており、当時の道標を兼ねていたことが分かる。




地蔵堂




◆弘法大使像



現在の此の台上は大東亜戦争の末まで神馬像の姿が親しまれて居たのに金属回収の為供出となり以来空席の儘風雨に曝され寂しい様相を儲けたが弘法大師御誕生一千二百年を迎え當寺の記念事業の一つ
として茲に修行大師を安置し其の偉徳を偲ぶ次第である




◆千日回向名号塔(せんにちえこうみょうごうとう)



南無阿弥陀仏」の六文字を刻んだ石塔を「名号塔」と呼び、蓮華院の名号塔は市内唯一のものである。
 塔の正面には「千日回向所」、正面と左右側面には「南無阿彌陀佛」と戒名並びに逆修供養の人を含めた法名や俗名等総勢五〇人の名前が刻まれ、これらの人々の冥福と極楽往生を願って千日間の念仏供養を行い、それを記念して延宝(えんぽう)九年(1681)に造塔したとみられる。また、左右側面には、現入間市狭山市飯能市日高市の一部の地域に広がる約五〇か村の名とそれぞれの人数が刻まれ、人数は合わせて約二五〇〇人を数える。これらの人々は念仏供養や造塔への助力など、何らかの形で関係したと思われる。
 左側面左下には「石や太郎兵衛」と石工の名前が彫られている。石工名が刻まれている石塔としては市内だけでなく近隣でも最古のものである。
 この塔は、江戸時代前期における念仏信仰の様相を示すものであるとともに、石工名を刻んだ当地域最古の名号塔として貴重な資料である。




◆弁天堂




◆石塔




◆観音像




◆宝篋印塔




◆鐘楼




六地蔵




◆小祠




◆石塔




◆石塔




◆山門




◆山門




◆山門




◆参道入り口




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