2023/11/05 春日神社




春日神社の由緒は詳らかではないが古くからの言い伝えによると元仁元年甲申八月(1224年)大和の国奈良県春日大社より勧請されその後宝暦二年壬申(みずのえさる)(1752年)に御社殿再建されたと伝えられる昔は産土神として崇められ明治二年の太政官布告令により神仏分離が行われ明治五年に指定村社に列せられた。
当骨社は元は西山の地(現所在地の西方数百メート ル)の古木蒼然(こぼくそうぜん)とした森の中に在ったが明治五年にこの地(黒須村字久保田七七三番地)移築されその後明治四十五年に稲荷神社(字秋津より)氷川神社(字久保田)愛宕神社(字沓初場(くつきりば))白山社八雲神社(字後(あざうしろ))から併合合祀されて黒須の鎮守として篤い崇敬を集めてきたものです。



春日神社本殿 付棟札
 総桧造の本殿は、形式が母屋(もや)に向拝(ごはい)、浜床(はまゆか)のついた一間社流造(いっけんやしろながれづくり)、屋根は板葺きとなっている。組物や棰(たるき)など各部材の形状や配置などに、江戸時代の正規の手法に則った設計がみられ、技法的には本格の神社建築である。また、部材に花鳥霊獣の彫刻が施され、様式・意匠的に見て江戸時代中期から後期頃の神社建築の特徴をよく残している。
 この本殿には、宝暦十四年(一七六四)の再建を記す棟札が残っており、建築年代を裏づける資料となっている。なお、棟札に記されている高麗郡長形(ながた)村(現在の飯能市永田)の大工・細田源左衛門(ほそだげんざえもん)は、円照寺北向不動堂(えんしょうじきたむきふどうどう)(市指定有形文化財)も手掛けており、両者には装飾細部の意匠に共通性も見られる。




護国神社



護国神社の由来
昭和二十九年十月戦没者遺族会の発願により当神社の境内の一隅に護国神社が建立され氏子出身の日露戦争シベリア事変日支事変大東亜戦争で出征し護国のために散華した百十五柱の英霊を慰めるためお祀りしたのが護国神社です





◆大楠木



大きな楠木の話
 この大きな二本の楠木は日露戦争(明治三十七年~明治三十八年)に勝った記念に当時の春日神社氏子総代長 小島新吉(こじましんきち)さんが植えたもので植えてから百十年以上が経っています
 この他に元豊岡小学校(丸広百貨店(まるひろひゃっかてん)東側にある現在の故(ふる)きを温()たずねる公園)、元豊岡町役場(丸広百貨店西側の国道を挟んだ現在の入間豊岡市街地住宅・通称豊岡団地)、蓮花院(れんげいん)(春日町二丁目真言宗のお寺)、小島新吉さん宅(春日町一丁目)にそれぞれ植えられました
 今も青々とした葉が大きく茂っています




◆鳥居




◆参道入り口




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