2023/12/20 旧日立航空機立川工場変電所


『この変電所は、航空機のエンジンを生産する軍需工場へ送電する変電施設として1938年(昭和13年)に東京瓦斯電気工業株式会社変電所として作られた。翌年には日立製作所と合併、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>の変電所に改称する。戦局の激化に伴い1945年(昭和20年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機、4月19日、P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射、4月24日にはB-29 101機の編隊による空襲により被災。隣接する工場は大破したが変電所は大きな被害は免れた。戦後は、東京瓦斯電気工業を合併した富士自動車(後の小松ゼノア)の変電所として機銃掃射を受けたクレーター状の弾痕を残しつつ、内部の変電施設の更新を実施しながら1993年(平成5年)まで変電所として使用された。』
旧日立航空機立川工場変電所 - Wikipedia




東大和市文化財 史跡・戦災建造物 旧日立航空機株式会社立川工場変電所
 この建物は、昭和13 (1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場く立川発動機製作所〉に改名)の変電所です。
 北隣りにあった設備で受電した66,000ボルトの電気を、 3,300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
 外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。 最初は昭和20 (1945) 年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、 P-51ムスタング戦闘機数機によるもの。 3回目は4月24日、 B-29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、 経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、 貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、 元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、 保存へと実を結んだのです。 保存にあたっては、 最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。 そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。 この建物から、 戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月

◎工場建設前に設計された計画図をもとに表示しました。
 したがって、 実際の設置状況と若干の違いもあり得ます (工場の完全完成は昭和25年を目指していました)。
◎各設備のうち、 太線で表記したものは昭和20年当時稼動または建物が完成していたものです。 その他は建設中あるいは未建設のものです。
(参考: アメリ戦略爆撃調査団の被害状況調査平面図)






◆米軍500ポンド爆弾(226.7kg) 実物大模型

東大和市内でも過去に幾度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。






終戦当時の工場全体図と現代






◆昭和20(1945)年の空襲

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、 軍需工場が集まる多摩地域は、 多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、 従業員やその家族、 勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日 (土) 10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
「北から来襲して会社のすこし手前で東を向くようなかたちで斜めに急降下し、爆弾をぽろっと落とし、次の瞬間、 急上昇するので、エンジンをふかし金属音を立ててすごい音でした。」

4月19日(木) 10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
「警戒警報が発令されたので朝から給水塔に登っていました。 空襲警報の情報が入ってきたので半鐘を乱打、すると 「バリバリバリ」と物凄い激しい機銃の音がしました。 振り返って見上げると、頭上に黒い飛行機が3機、機銃掃射しながら東の方へ飛び去って行きました。」

4月24日(火) 9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
「全員退避! の放送と空襲警報のけたたましいサイレンに、点呼どころではなく駆け出しました。空堀川に駆け下りたと同時に、ザー!グオー!物凄い落下音。 工場からかなり離れているのに、炸裂するたびに頭上から膨大な砂利が降り注ぐような轟音と、腸に響く激震。 筆舌に尽くしがたい怖さに、耳と目をふさぎ川の斜面にへばりついていました。」






◆2F変電設備



変電所について
 変電所は、昭和13 (1938) 年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア (株)などで、設備を更新しながら平成5 (1993) 年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 屋外に主変圧器や遮断器 (スイッチ) などの主屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 ハツ沢発電所 (現: 山梨県上野原市) で発電された電力は、 府中変電所を経て、 この変電所に供給されていました。 66kV・2回線で送られてきた電力を、この変電所で 3.3kVに変換して、平成5年当時の変電所2階の様子 工場内の各施設に供給していました。






◆配電盤


配電盤について

 前面パネルに、 『第1バンク』 『第2バンク』『第1 ~ 9号高圧配電盤』 と記されています。バンクとは主変圧器のことで、屋外に2台設置されていました。 この変電所は、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。 配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、 変電所が建設された当時のものです。 脇に 「昭和14年製」 と記載があります。
 この低圧配電盤には、 複数の銃撃痕が残されています。 空襲の際に、 南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、 銃弾が飛び込んできたことがわかります。


受変電設備の配置(電力の流れ)






◆OCB室





油入遮断機

 変電所から工場に供給していた電気が何らかの原因で短絡(ショート) などを起こしたときに、 自動的に回路を遮断して安全を守るための装置です。更に、 設備の点検や保守時にも用いられました。
 各工場への配線につき一個が設置されており、銘板によると1970年 (昭和45年)に製造された設備のようです。
 室内の機器は当時のまま残されており、保存の為立ち入りは禁止となっております。






◆仮眠室






◆パネル









◆展示






◆給水塔



 変電所の西方約二百三十メートルのところにあった給水塔は、高さが約二十五メートルあり、工場内のほぼすべての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和二十(1945)年、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業を停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成十三(2001)年三月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。






◆慰霊碑



遷座の由来
 旧日立航空機株式会社 (現在の小松ゼノア(株)の前身) は、 太平洋戦争中、 航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、 小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、 また、恒久平和を願い保存することとしました。






◆防護壁



 昭和十三(一九三八)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和二十(1945)年、三回の爆撃を受けも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼動を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設とともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。






被爆アオギリ二世



 昭和20年(1945年) 8月6日、広島に原爆が投下されました。 「広島には、 100年間草木は生えない」 とまで言われた中、爆心地から約1.3km で被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられたアオギリは、翌春には新芽を出しました。 焦土の中で青々と芽を吹き、アオギリの生命力は、 当時、 原爆の怪我や後遺症で苦しみ絶望の中にいた人々に大きな力と生きる希望を与えました。 その後 「被爆アオギリ」は、広島の平和記念公園に移植され、現在も生き続けています。 「被爆アオギリ二世」 は、 この 「被爆アオギリ」の種子から育てられました。
 ユネスコ憲章の前文には、「人の心の中にとりでを築かなければならない」とあります。
「戦争ほど残酷なものはない 戦争ほど、悲惨なものはない」という永遠の理念のもと、戦争を風化されないために、 市指定文化財である旧日立航空機株式会社立川工場変電所に、 この 「被爆アオギリ二世」 を植樹し、平和ほど尊きものはないこと、平和ほど幸福なものはないことを伝えてまいりたいと願います。





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戦災建造物 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所|東大和市公式ホームページ





公開日時 
毎週水曜日・日曜日 午前10時30分~午後4時(年末年始を除く)
とありましたが、行かれる方はHPなど確認してから行ってくださいネ!





場所はコチラ