2023/02/08 おおぞら公園(IHI田無工場跡地・ジェットエンジンのふる里)


IHI田無工場跡地に建設された公園とのこと。

参考
おおぞら公園 西東京市Web





ジェットエンジンのふる里の地碑






IHI田無工場跡地


ジェットエンジンやロケットはなぜ飛ぶの?

ジェットエンジンやロケットは燃料を燃やしてできたガスをふきだして飛びます。 風船が空気をふきだしながら飛ぶのと同じです。

ジェットエンジンは空気を吸い込んで圧縮し、 燃料と混ぜ合わせて燃やします。だからジェット機は、 空気のあるところでしか飛べません。

ロケットは燃料を燃やすのに自分で酸化剤(酸素など) を持ってゆきます。 だから、 空気(酸素)のない宇宙空間でも飛ぶことができるのです。 燃料のちがいにより固体ロケットとポンプ 液体ロケットがあります。



宇宙開発事業の本格化

田無工場では日本の大型衛星打ち上げ用ロケット (H-ⅡIA) のエンジンのターボポンプや、ロケット、 人工衛星の姿勢制御装置などを開発・生産してきました。 国際宇宙ステーション計画では 「 きぼう」 日本実験棟の曝露部 (船外実験プラットフォーム) などを担当しました。



ジェットエンジンの仕組み



ジェットエンジンのいろいろ

ターボジェット-
高温のガスを後ろからふきだします。主に超音速飛行機に使われます。
ターボシャフトターボプロップ
高温のガスをタービン (羽根車) に吹き付けて回す力を取り出します。 その力でヘリコプタの回転翼や飛行機のプロペラを回します。
ターボファン
タービンで前方のファンを回し、 たくさんの空気の流れと高温の燃焼ガスを後ろからふきだします。 燃料が少なくてすむので主に長距離旅客機に使われます。



環境にやさしく

燃料消費量
同じ人数を同じ距離運ぶのに2000年ころには 1960年ころの半分以下の燃料ですむようになりました。

騒音
空港周辺で騒音の影響を受けている範囲は1990年代には1970年代のおよそ1/15に減っています。



ジェットエンジンのふる里」 記念碑について

この「ジェットエンジンのふる里」 記念碑は、戦後日本のジェットエンジンの開発・生産の歴史を作ってきたIHI 田無工場の閉鎖・移転を機に、関係者の寄付により建てられたものです。
ジェットエンジンのふる里」 は、 昭和32年IHIが田無工場としてジェットエンジンの専門工場を開設したこの地が、 ジェットエンジン工業の中心であったことを後世に残したいとする趣旨で名付けられました。 また、この地は、昭和初期から航空機用の部品を生産してきた工場の跡地で、 航空機工業に由緒深い場所でもありました。
田無工場発足以来50年、 環境は大きく変わり、工場周辺は住宅地として発展しました。 田無工場は、 平成19年、工場としての使命を終え、跡地は市民生活の場、憩いの場として活用されることになりました。
ジェットエンジンのふる里」 記念碑は、ジェットエンジンの象徴的部品であるブレード (翼)を表し、周りに配置した説明盤は田無工場と航空宇宙工業の発展の経過などを綴ったものです。説明盤台座の煉瓦は、田無工場開設当時から事務所に使われていたものです。
この記念碑により、市民とともに歩んできた田無工場の往時を偲び、さらに将来この地から科学技術に興味をもつ多くの若人が巣立つことを期待します。



田無工場の開設
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昭和32(1957) 年3月、 石川島重工業(社長土光敏夫) は旧中島飛行機の協力会社の跡地 建物を譲り受けてジェットエンジン専門工場として 「田無工場」を開設し、F-86機用J47エンジンの交換用部品や、国産で開発されたJ3エンジンの生産をはじめました。



田無工場の変遷

昭和32(1957) 年にジェットエンジン専門工場として開設された田無工場は、 事業の拡大や生産量の増大等に対応するため、 その機能を他の工場や事業所等に移管してきました。



田無工場の移転

事業の拡大に伴い新たな生産拠点が必要となり、 平成10 (1998) 年、 福島県相馬市に相馬工場を新設しました。 平成19(2007)年には相馬工場を拡張し、50年の歴史を持った田無工場を閉じてすべてが相馬工場に移転しました。



田無工場が携わったジェットエンジンの推移



日本初のジェットエンジン 「ネ20」

「ネ20」 は戦時中に海軍で開発され、 昭和20(1945)年8月、 海軍機 「橘花」 に搭載されて飛行に成功した日本で最初のジェットエンジンです。 東京石川島造船所(後のIHI) は生産を担当していました。 戦後米軍に接収されましたが、 その中の一台が里帰りして航空エンジン史料館 (元田無工場内、 現在は昭島事務所に移設) に保存されています。
当時開発にあたった永野治は、 後に初代田無工場工場長として、 戦後の航空エンジン発展の礎をつくりました。



日本ジェットエンジン (NJE) 設立とJ3エンジンの開発

戦後、日本の航空関連事業は禁止されていましたが、 昭和27(1952) 年再開が認められ、 石川島重工 (後のIHI) ほか4社で日本ジェットエンジン株式会社 (NJE) を設立し、国産ジェットエンジンの研究開発にあたりました。 NJEはJ3エンジンの開発・試作を行いましたが、途中から石川島重工が引き取ってこのエンジンを完成させました。 J3エンジンは、 ジェット練習機T-1Bなどに搭載され長く使用されました。



外国技術の導入と改良

田無工場ではJ79 エンジン、 T58エンジンなど数々の航空機用エンジンについて、進んでいた外国の技術を学び、 また独自の改良も行いながら生産してきました。特に品質管理やいろいろな材料の開発 加工の方法などを身につけ、 その後の航空機エンジンの開発・製造の基盤を築きました。



民間航空機用エンジンの整備

エンジンの整備は航空輸送の安全に欠かせません。 田無工場 (後に瑞穂工場に移管) では昭和37(1962) 年ごろから多くの民間航空機用エンジンの整備を行っています。



国産ジェットエンジンの研究・開発

昭和46(1971)年に始まった通産省の大型プロジェクトで開発されたFJR710エンジンは、 昭和51(1976) 年イギリスでの高空試験に成功、 その後短距離離着陸機「飛鳥」に搭載されて試験飛行にも成功し、 日本の技術力の高さを世界に示しました。 また、田無工場で進めていた練習機用エンジンの研究成果がジェット練習機T-4用エンジンの開発計画に取り入れられ、昭和62(1987) 年F3エンジンとして完成しました。



進化する技術

軽量・超高速の航空機に必要な最新鋭エンジンは、外国の技術を学びながら生産されてきました。 それと並行して田無工場では多くの新しい技術を独自に開発してきました。
たとえば、F100エンジンでは単結晶中空精密鋳造技術やチタン・ニッケル合金の特殊加工技術などが開発され、 軽量化や高性能化を達成しました。

軽量高強度のチタン合金や耐熱合金が多く使われるようになり、エンジンの重量が軽くなりました。 また、 精密鋳造で作られた翼は冷却しやすくなったため、 エンジンの性能が高くなりました。 その結果、同じ重さのエンジンでは従来の2倍以上の力を出せるようになりました。



国際共同開発への参入

FJR710エンジンの成功で日本の開発技術力が認められ、イギリスのロールスロイス社からの呼びかけで新しい民間航空機用エンジンの共同開発が国の支援を得て始まりました。 その後アメリカ ドイツ、イタリアの会社も参加して、 昭和58(1983)年、五カ国共同開発となりました。 このエンジンはV2500と名づけられ、エアバス社の旅客機 A320シリーズに搭載され世界の空で活躍しています。 日本はシャフトとファンモジュールの製作を分担し、 田無工場ではそれらの設計および部品試作を行いました。



民間航空機用エンジンの共同開発と生産

昭和60年代以降、大型、 小型、 長距離、短距離などいろいろな旅客機に合わせてGE90、 CF34、 GEnx等のエンジンの開発が計画されました。 これらの国際共同開発に参加し、 田無工場はその開発・生産を担当しました。



陸舶ガスタービンの活躍

航空機用エンジンは小型・軽量で大きな力を出すことができるので、 ビルの自家発電装置や高速船のエンジンとしても活躍しています。 また、 災害地などではどこにでも行ける移動電源車が活躍しています。



日本のロケット

日本のロケットは昭和30年、 長さわずか23センチメートルのペンシルロケットに始まりました。
それから約50年たって、 H-IIAロケットが日本の主カロケットとして活躍しています。

日本のH-ⅡIAロケットは世界の大型ロケットと肩を並べる大きさです。




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