2024/03/09 我孫子駅前






我孫子市観光案内など




我孫子市ゆかりの文化人

 手賀沼利根川に囲まれた田園風景豊かな我孫子市は、古くから文化人たちとゆかりが深い。主な人々を紹介する。
 手賀沼のほとりには、20世紀はじめの大正時代、多くの文人が暮らし、数々の名作を生み出した。沼近くに別荘をもった柔道家嘉納治五郎にみちびかれ、人道主義と理想主義を唱える白樺派柳宗悦志賀直哉、武者小路貫薫が移り住み、交流し、 思索を深め、創作にはげんだ。
 白樺派の人々がいた手賀沼べりには、数多くの友人知人や信奉者が訪れた。 陶芸家のバーナード・リーチや作家の中勘助亀井孝作も沼畔で作品を残している。

 ジャーナリストの杉村楚人冠は、随筆で手賀沼の風物を世に広く紹介した。 手賀沼水草を研究した中野治房は、自然保護を提唱する植物学者となった。 また、沼周辺に生きた、歯科医界の権威血脇守之助は、野口英世の育ての親で知られる。
 利根川べりでは、19世紀後半の明治時代、後に国際的な民俗学者になる柳田國男と気象学者になる岡田武松が、若き日に友情を深めつつ、その人と学問の形成を図った。

柳田國男
やなぎた くにお 1875~1962
 民俗学者兵庫県に生まれる。旧姓は松岡。貴族院書記官長をへて民間にあって日本民俗学を樹立。 「遠野物語」 「海上の道」をはじめ厖大な著作がある。 近代日本を代表する国際的文化人。 我孫子市布佐に実家松岡家があり、青少年時代の利根川べりでの体験は後の彼の人と学問の形成に大きな影響を与えた。文化勲章受章。 柳田には松岡鼎 (医師)、井上通泰 (歌人)、松岡静雄(言語学者)、 松岡映丘(日本画家) たち英才兄弟がいる。

岡田武松
おかだ たけまつ 1874~1956
 気象学者。 我孫子市布佐に生まれる。 中央気象台長。 日本の気象観測事業の確立に貢献した気象界のパイオニア。 岡田の法則や梅雨論などで知られる国際的気象学者。 地元周辺に気象送信所、 気象大学校、気象測器工場などを誘致し、 また、 岡田文庫を開設するなど、地域の振興に貢献した。
文化勲章受章。

中野治房
なかの はるふさ 1883-1973
 植物学者。 我孫子市中里に生まれる。 東京大学教授。 手賀沼も含めた湖沼の植物研究から出発し、 植物生理学や植物生態学理論など幅広い研究活動を展開。自然保護運動や雪国生活改善運動などにも参加。 大正時代に郷土誌を編纂、第2次世界大戦後には地域文化運動を組織し地元村長も務めた。

嘉納治五郎
かのう じごろう 1860~1938
 柔道家 教育家。 兵庫県に生まれる。 講道館を創設して柔道の発展に貢献する。 東京高等師範学校長。 大日本体育協会創立。IOC委員として第12回オリンピック東京大会の誘致に成功(第2次世界大戦のため中止)。 明治時代末に我孫子に別荘を建て、手賀沼別荘文化の草分けとなる。 沼べりの丘に学園建設を構想した。

杉村楚人冠
すぎむら そじんかん 1872~1945
 ジャーナリスト。 和歌山県に生まれる。 本名は廣太郎。 朝日新聞社に入社し、調査部や記事審査部を新設、 縮刷版やアサヒグラフを創刊。 新聞学者としても有名。 大正時代末から我孫子に永住した。随筆「湖畔吟」などで手賀沼周辺を広く全国に紹介。 また、地元に俳句結社をつくり地域文化の育成に貢献した。

バーナード・リーチ
Bernard Leach 1887~1979
 イギリスの著名な陶芸家。 香港に生まれる。明治時代末から大正時代中頃まで日本に滞在し、柳宗悦や富本憲吉、濱田庄司らの民芸運動に参加。 大正5年(1916)、我孫子柳宗悦邸内に窯をひらき作陶に励んだ。 イギリスに帰国後はセントアイブスを中心に制作を続けた。

武者小路實篤
むしゃのこうじ さねあつ 1885~1976
 作家。 東京に生まれる。 雑誌 「白樺」 を創刊。 白樺派の代表的存在。 人生肯定、 人間信頼を唱え、 ユートピアを目指して 「新しき村」を開いた。 代表作に 「お目出たき人」 「人間万歳」 「真理先生」 などがある。 大正5年(1916) から我孫子に在住、 同7年に「新しき村」 建設のため九州へ出発した。 文化勲章受章。

柳宗悦
やなぎ むねよし 1889~1961
 哲学者。 東京に生まれる。 民芸運動創始者。 雑誌「白樺」の創刊に加わり、やがて民芸運動を提唱する。 雑誌「工芸」を創刊。 日本民芸館を設立。 大正3年(1914) から同10年まで我孫子に在住。 我孫子時代、宗教哲学者として自立しながら、朝鮮芸術への関心を深めた。 それはやがて民芸思想の形成に結実した。 妻の兼子は声楽家として著名。

志賀直哉
しが なおや 1883~1971
 小説家。 宮城県に生まれる。 雑誌 「白樺」の創刊に参加する。 感受性と描写力に富み簡潔で格調の高い作風は、「小説の神様」とも称された。 大正4年(1915) から同12年まで、我孫子に在住。 「和解」 「暗夜行路」 「城の崎にて」など志賀の代表作には、 我孫子時代の作品が多い。 文化勲章受章。









◆飯泉喜雄顕彰碑

 飯泉喜雄氏は鉄道なくして町の発展無し」と信じ駅誘致に奔走私財を投じて駅用地を無償提供し明治二十九年我孫子駅開設に成功した。
 さらに我孫子町長千葉県議会議員をつとめ地域の発展に尽力した。
 以来この町は成田線の開通生糸工場進出白樺派文人の来往など発展の道をたどる。氏は激務と心労のため六十二歳で病没した。
 私たちは氏の先見の明と奉仕の精神に満腔の謝意を捧げる●●●精神を奮い起こそう。

●は判読できなかった。
ご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>









◆停車場道碑

碑文
世運ノ進歩ニ伴ヒ凡百ノ事業勃興シ従テ交通機開ノ必要ヲ来スハ自然ノ勢ヒナリ今ヤ當驛日成鐡道ノ分岐点ニ當リ乗客及ヒ貨物等ノ運輸ハ日ニ其ノ繁多キヲ加ヘ形勢為ニ一變セリ然ルトモ道路未タ完タカラス通行轗軻スルモノ亦尠ナカラス是ニ於テ公衆ノ利便ヲ謀リ新道開通ノ事興リ機敏ナル諸有志同心戮力シテ此新道路ヲ開通シ亟ニ其功ヲ竣レリ仍テ茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トナス