2023/10/24 西八王子・八王子散歩 03 三峰神社/八幡宿跡/甲州街道八日市宿跡/八王子道路元標/西放射線ユーロード入口/八王子宿案内板/肥沼信次博士顕彰碑

前に日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/10/24/210000




三峰神社







◆八幡宿跡

現地では説明版など見当たらなかった。



google mapのマークは烏煙ぽ写真のところ辺り。

『もともとは滝山城の城下町にあったが、八王子城を経て江戸期より八王子横山十五宿の1つであった八幡宿が置かれた。1868年(明治元年)、神奈川県の管轄となり、1878年明治11年)からは南多摩郡の一部となった。1882年(明治15年)、八王子八幡町と改名し、1889年(明治22年)4月1日八王子町制の施行により八王子町八幡町となった。1893年明治26年)4月1日より東京府に移管された。1917年(大正6年)9月1日、八王子市制施行により、八王子市の町名となった。1968年(昭和43年)住居表示を実施した。 』
八幡町 (八王子市) - Wikipedia





甲州街道八日市宿跡



八日市宿跡について
 戦国時代の終わりごろ、 それまで関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、 豊臣秀吉の命を受け、 徳川家康が新たな領主となりました。
 家康の統治下となった八王子では、それまでの八王子城下 (現在の元八王子) から現在の市街地へ街が移転され、新しい街づくりが始められました。 まず東西の道(甲州道中)が整備され、東から横山・
八日市・八幡の三宿が開かれました。
 江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、 また地域経済の中心都市として発展しました。なかでも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣がおかれ、山上家や新野家が本陣役を勤めるなど、 八王子の中心的な役割を担っていました。
 四のつく日は横山宿 八のつく日は八日市宿で六斎市が立ち多くの人々で賑わいました。

参考文献・江戸時代の八王子宿






◆八王子道路元標

一般国道八王子道路元標
道路元標は、大正8年制定の旧道路法において、各市町村に一個設置するとされた石標で、 道路の起終点・経過地点として利用されました。 八王子市では大正9年に当時の「八幡町三番ノー」に定められていました。
近年では、道路元標の設置位置を定めた法令などはありませんが、一般国道1620号の 「八王子」 を示す距離の起点として、ここに「一般国道八王子道路元標」を設置します。
本来の八王子の起点は、八日町交差点の中央部にあり、この道路元標の中心から北西におよそ19mの位置となります。この位置は、「一般国道16号では起点の横浜市桜木町より40km」 「一般国道20号では起点の中央区日本橋より45km」となっています。

明日にむけて
 2001年、宿駅伝馬制度の制定から400年を迎えた甲州街道とその沿線地域を舞台に「甲州街道2001」 が開催されました。
 実行委員会には、新宿から諏訪の1都3県にわたる広範な地域から、104の団体が参加されるなど、新しい広域連携の可能性を示しました。
 「道と地域のエンパワーメント」をテーマに、4都市で開催された「サミット&メッセ」は、これからの甲州街道とその沿線地域にとって、重要なテーマを語り合う機会となりました。
 交流と連携の促進とともに個性ある地域の発展を提起した「甲府サミット」 環境と共生する持続可能な観光の発展を考えた 「諏訪サミット」 ITSが実現する道と地域の情報化を展望した 「新宿サミット」、そしてフィナーレの「八王子サミット」 では、活力に溢れる 「ひと」 と 「まち」を結びつける 「みち」 の未来像が提案されました。
 サミットと同時に開催された 「メッセ (街道市)」も、甲州街道沿線地域の魅力や生活文化を体感する交流事業として大きな成果を納めました。
 4月から11月にかけて展開された「甲州夢街道ウォーク」には、延べ14,000人におよぶ方が参加されました。 参加者は美しい自然、温かい人々に迎えられ、 甲州街道とその沿線地域の多彩な魅力を再発見するとともに 「ひと」「まち」 「みち」の魅力づくりへの新たな課題も明らかにされました。
 さらに、各種の事業や情報発信事業、ホームページなどを通して、 甲州街道とその沿地域の魅力が多彩に発信されたことも本事業の大きな成果となりました。
 そして何よりの成果は、 甲州街道と共に育った地域の個性豊かな郷土の魅力を共有するとともに、交流と連携の促進によって、新しい広域連携の舞台としての「甲州街道エリア」 が創出されたことであり、私たちにとって、大きな財産となりました。
 2001年に培われた交流と連携の成果をさらに発展させ、次代を担う子供たちの夢の舞台となる「ひと」「まち」 「みち」づくりを共に進めて行くことを目指し、私たちは明日に向けて、ここに 「甲州夢街道宣言」を採択します。

甲州夢街道宣
1.私たちは、 甲州街道を中心に歴史と文化に彩られた価値ある地域を共有しています。 この地域間の交流を促進し、 新たな地域連携の舞台としての「甲州街道エリア」を発展させます。
1. 私たちは「甲州街道エリア」 において、人々が織りなす文化の香り高い「まちづくり」を推進するとともに、情報化やネットワーク化を進め、魅力ある生活環境を創造します。
1.私たちは、未来に向けた夢を実現するために「甲州夢街道2001「実行委員会」の成果を承継した 「甲州夢街道推進委員会」を発足し、 人と人、地域と地域、 民間と行政のパートナーシップの絆をより強固なものにします。





◆西放射線ユーロード入口

商店街♪





◆八王子宿案内板

肥紹信次博士
八王子市中町出身の医師、 肥沼信次博士は、 第二次世界大戦直後、旧東ドイツのヴリーツェン市で、 当時死の病であった発疹チフスの治療にあたり、 多くの尊い命を救いました。 半年にわたる献身的な治療活動の果て、 自らもこの病に感染し、 三十七歳で亡くなりました。
こうした功績から博士はヴリーツェン市の名誉市民として、 今もなお、 多くの市民から敬愛されています。
「まちなか休憩所 八王子宿」では、資料の展示を行っています。

「まちなか休憩所 八王子宿」 のコンセフト
八王子宿は、江戸時代に整備された甲州街道沿いに形成された十五の宿場の総称であり、江戸や高尾山、富士山へ向かう旅人を迎える 「休憩所」として、 多くの旅籠が建ち並ぶ地域経済の中心拠点でした。 そこで、中心市街地における来街者の安らぎの空間を創出するための拠点として、「まちなか休憩所 八王子」を整備しました。

「八王子宿」のご案内
休憩スペース、 パウダールーム赤ちゃん ふらっと、トイレ等どなたでもご利用いただけます。



八王子花街・黒塀通り

以前来たことがある。
2019/06/27 02 八王子散策 北八王子駅/黒塀通り/山桜 - ovanの社会科見学




◆肥沼信次博士顕彰碑



一九○八年 八王子市中町の医師であった父 肥沼梅三武装 母ハツの次男として誕生。
一九二一年 旧制八王子著三尋常小学校二現,八王子市立第三小学校卒業。
一九二六年 旧制府立第二中学校(现 郝立立川高校)卒業。
一九三四年 日本医科大学卒業、東京帝国大学医学部放射線医学教室にて研究活動に従時。
一九三七年 ドイツへ渡航 ベルリン大学ハウ車線研究所に入所。
一九四五年 ヴリーツェン伝染病医療センター長に任命され、発疹チフスの治療に尽力。
一九四六年 発疹チフスに感染「日本の桜を見たい」との言葉を残し逝去(三十七歳五か月)
一九八九年 ベルリンの壁崩壊を契機に、八王子市出身であることが判明。
一九九四年 ヴリーツェン市名誉市民の称号を贈られる 弟・肥沼栄治夫妻が初訪問。



肥沼信次博士(1908年~1946年)
 八王子市中町出身の医師、肥沼次博士は、第二次世界大戦直後旧東ドイツのプリーツェン市で当時死の病であった発チフスの・治療にあたり多くの尊い命を救いました。半年にわたる秋身的な治療
活動の果て、自らもこの病に感染し、三十七歳で亡くなりました。こうした功績から博士はヴリーツュン市の名誉市民として、今もなお多くの市民から敬愛されています
「誰かのために生きてこそ、人生には価値がある」
これは、肥沼裕次博士が尊敬していたドイツの物理学者、アインシュタインの言葉です。





続く。
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