2017/08/27 02 神保町散歩 04 安全地蔵尊/西神田公園/西神田/山田顕義先生之像/三崎稲荷

安全地蔵尊は前日記の愛全公園のすぐ前にあった。
google map に表示された二つ目の公園を目指した後、水道橋駅の方に向かう。
この日の散歩ルート、神社が極端に少ないなあ・・・。



◆安全地蔵尊






◆西神田公園

学校が近く、学生が沢山いた。
てか、この辺の学校の数が半端ないね・・・・。
専修大、日大、大原・・・・・。




◆西神田

江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時の武家地には正式な町名がありませんでしたが、江戸城の北西一帯は、小川町(おがわまち)という俗称で呼ばれていました。
明治時代に入ると、武家地だった場所にも町名が付けられるようになります。明治五年(1872年)、ここに「猿楽町」や「中猿楽町」「今川小路三丁目」「西小川町一丁目(にしおがわまちいっちょうめ)」「西小川町二丁目(にしおがわまちにちょうめ)」といった町が成立しました。
このころ町内には、哲学者で啓蒙思想家でもあった西周(にしあまね)の屋敷がありました。その屋敷に明治五年から数年間、寄宿していたのが、小説「高瀬舟」などで知られる森鴎外です。ふるさとから上京したばかりの鴎外にとって、多感な少年時代を過ごした西周邸での生活は、忘れられないものだったに違いありません。
昭和九年(1934年)、表猿楽町(かつての猿楽町)と中猿楽町の北側が合併し西神田一丁目に、西小川町と今川小路三丁目の一部などが西神田二丁目となりました。「西神田」という町名は、当時の神田区の西側に位置していたため生まれた名前です。昭和四十二年(1967年)、西神田二丁目のうち、西側の一部の区域が分割されて西神田三丁目となっています。



小川町→おがわちょうって呼んでしまいそうになるけど「まち」なんだね。
周→あまね   読めないなあ・・・。



山田顕義(あきよし)先生之像




日本大学の学祖とのこと。
フランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信。
以後法律の研究に没頭したとのこと。
wikiのページを見ると、情報量がすごい。
あとでゆっくり見ることにする。


山田顕義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9



◆三崎稲荷神社

諸大名は参勤交代による江戸入りの際、必ず当社に参拝して心身を祓い清めることが慣例となり「清めの稲荷」と呼ばれていたとのこと。
ものすごい神社だったんだねぇ。



散歩は次のページで終わる。

2017/08/27 02 神保町散歩 05 水道橋/三崎町一丁目/水道橋東歩道橋/水道橋駅

もう水道橋です。
神保町から水道橋まで寄り道しないで歩いたら10分かからないんじゃない?



◆水道橋





水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。


この「かけ樋」のことを調べると「神田上水掛樋」のことのようである。
その跡碑が近くにあるとのことなので、今度行ってみよう。
木製にしろ、石製にしろ、水道を渡してたのだから、水がばしゃばしゃこぼれたりとかもあったのかなあ?



◆三崎町一丁目



 三崎町という町名が誕生したのは明治五年(1872年)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。
JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らか(つまびらか)ではありませんが、鎌倉時代初期の建久(けんきゅう)年間(1190年〜1199年)よりも前とも伝わっており、とても歴史ある神社です。江戸時代には、三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。
閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目(には三崎三座(みさきさんざ)と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる街でした。
関東大震災後の区画整理で、三崎町一丁目は昭和九年(1934年)に三崎町二丁目と統合されますが、町名は三崎町一丁目のままでした。昭和二十二年(1947年)、神田区麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町一丁目に変わります。そして、昭和四十二年(1967年)の住居表示の実施にともない、神田三崎町一丁目は分割され、旧三崎町一丁目だった区域がふたたび三崎町一丁目と定められ、現在に至っています。



前日記の三崎稲荷神社についても書かれてるね!



◆水道橋東歩道橋




中央線と同じ高さにあり、電車撮ったりするにはいい場所かも。
「鉄」じゃないからわからないけど(w



水道橋駅


ゴール!
歩いた距離はかなり短いはず。
大手町散歩と神保町散歩で、パソコンのフォルダでわけたスポットの数は40あった。
見どころ満載な散歩道だった。

2017/08/27 01 大手町散歩 01 電話交換創始之地/日本歯科大学発祥の地碑/評定所・伝奏屋敷跡/和田倉橋/和田倉噴水公園

24時間勤務アケに、一人で東京駅から皇居、神保町、水道橋を散歩。
まずは東京駅から皇居までの史跡を巡り、和田倉噴水公園まで。
再開発でなくなっているのがあって、悲しくなった。



まずはスタートの東京駅。




◆電話交換創始之地


三菱信託銀行の壁面にあったとのことですが、建物自体がない。
確認できたブログに張り付けてあった写真の撮影日が2003年9月と書いてあった。
かなり前だなあ。
碑ぐらいは残しておいてもらいたいものだね。




日本歯科大学発祥の地碑






中原市五郎は, この地に, 明治四十年六月(1907), 公立私立歯科医学校指定規則に基づく わが国最初の歯科医学校として, 私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は 黎明期にあり, 「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。 国民の生命と健康を守るため, 歯・顎・口腔の医学を教導し, 数多くの優れた歯科医師を 輩出し, 歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治四十二年に現在の千代田区富士見 一丁目に移転し, 日本歯科医学専門学校を経て昭和二十二年に日本歯科大学に昇格した。日本 歯科大学は, 私学として「自主独立」という建学の精神を継承し, 生命歯学部と新潟生命歯学部の二学部をはじめ, 大学院二, 付属病院三, 短期大学二, 博物館一を有する世界最大の歯科大学となった。


博物館?
ということで調べたら、新潟県にあるとのこと。
日本歯科大学新潟生命歯学部 「医の博物館」
越後線関屋駅下車、徒歩約15分のところにあるらしい。
行きたい!!



評定所/伝奏屋敷跡





地図ではたぶんこの辺り。


こちらも何も残ってなかった。
評定所wikiで調べると、
江戸城外の辰ノ口(現在の千代田区丸の内一丁目4番南西部で丸の内永楽ビルディングがある位置。明治維新直後には糾問所が置かれ新撰組隊士2人が調べを受けた)にあり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行寺社奉行勘定奉行と老中1名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行町奉行勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であり、寺社奉行4人、町奉行2人、公事方[1]の勘定奉行2人を「評定所一座」と称した。』



伝奏屋敷をWEB辞書で調べると、
『江戸時代、武家伝奏または勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅。』


武家伝奏wikiで調べると、
武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。』


公卿も調べた・・・
『公卿(くぎょう)とは、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。』


奏請も調べた・・・
天皇に申し上げて、その決定を求めること。』



分からない言葉だらけ・・・(汗




◆和田倉橋




 この橋を和倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。
 慶長七年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長十二年(1607)の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。
 和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されています。警備は、譜代大名で二万石から三万石の者が担当していました。
 この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。



◆和田倉噴水公園







散歩はまだ続く。

2017/08/27 01 大手町散歩 02 大手門/市内最初の並木/江戸城此/将門塚

皇居の周りでサイクリングのイベント?
と見てたら、毎週日曜日に行われてる「パレスサイクリング」とのこと。
車が入れないように規制されてた。
そんなの毎週やってるんだねぇ。


散歩は大手門から一ツ橋の方へ。
皇居ランナーがいっぱい。




◆大手門



特に説明板などはなかった。
門の内側に入れるので、中に説明板などはそちらにあると思われる。
かなり昔に入ったことがあるのだがどうだったか忘れた。
また行ってみよう。



◆市内最初の並木




 明治八年「ニセアカシア」を、この道路に植えた。
 蘭学者津田仙翁が明治六年ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹である。
 なお、現在この通りの街路樹は「エンジュ」である。



江戸城

google map に載っていたので来てみたのだが、何もそれらしいものがない。
調べてもこの場所に関するものが出てこなかった。
マークの場所はだいたいこの辺り。




◆将門塚







 平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。徳治二年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。幾多の変遷の後、昭和四五年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。



 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。



 酒井家上屋敷
 江戸時代の寛文年間 この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり 歌舞伎の『先代萩』で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸原田甲斐の殺害されたところである。




 将門首塚の碑
 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在使の後にある石塔場は徳治二年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 明治二年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳朗は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。




門首塚の由来
 今を去ること1050有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして板東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治2年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我が世の春を謳歌していたが、遠い板東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃(かんばつ)が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲(ここ)にその由来を塚前に記す。




散歩はまだまだ続くのだ。





 

2017/08/27 02 神保町散歩 02 共立講堂/日本野球発祥の地/神保町駅/一ツ橋二丁目・神田神保町二丁目

前の日記から白山通りを北上しているのだが、両脇にすごい歴史のある建物や碑が多いね。
もしかしたら見逃してるのもいっぱいあると思う。



◆共立講堂

千代田区景観まちづくり重要物件とのこと。
構造設計は、東京タワーの設計者としても知られる内藤多仲博士。
意匠設計は前田健二郎氏。
戦後はこのような大講堂が都内にも少なく、音楽関係の公演のメッカとして知れわたったということです。




◆日本野球発祥の地



 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。
1872(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843〜1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが 「日本の野球の始まり」といわれている。 76年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。
 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州 ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、71年9月にサンフランシスコで日本 政府と契約し、来日。77年7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。
 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。 2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
まさにこの地は 「日本野球発祥の地」である。



神保町駅



◆一ツ橋二丁目・神田神保町二丁目

神田神保町二丁目は、一丁目とともに世界に誇る古書店街として知られていますが、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいました。町名の由来は、元禄(1688年〜1704年)ごろ、現在のさくら通り(救世軍本部の横)のあたりに神保長治(じんぼうながはる)という旗本(はたもと)が広大な屋敷をかまえ、付近に神保小路という通称が生まれたことからです。一ツ橋はさらに古く、徳川家康が江戸入府のころ、日本橋川(現在の外堀)に架けられた橋の名称に由来するものです。
明治五年(1872年)の市区改正で、この地区は南・北神保町と呼ばれるようになりました。そのころはまだ人口の少ない場所でしたが、付近の一ツ橋地区に開成学校をはじめ、東京大学、東京英語学校などが連なる文教地区として発展したため、神保町一帯には多くの書店が軒を並べるようになりました。明治後期には隣接の町内を含めて数十軒の古書店が生まれ、大正の初期には周辺の学校は七十以上を数え、新刊書店や出版社も増加しました。昭和戦前にかけては、喫茶店や映画館も含む学生街として大いに繁昌(はんじょう)したものです。
第二次大戦中、神保町と一ツ橋地区はともにアメリカ軍の空襲を免れました。神保町は昭和二十二年(1947年)に神田神保町と改められ、その後も、隣り合う一丁目や三崎町、小川町(おがわまち)なども含む古書店街として発展を続けてきました。一ツ橋一帯は企業が集中し、昭和四十一年(1966年)には竹橋や神保町など、地下鉄の各駅も誕生して交通至便となり、近年は海外から訪れる人も増えています。
私は半世紀以上も前、高校生時代に初めて一ツ橋の共立講堂を訪れて以来、この地区全体の文化の香りに引かれ、とくに書物文化の奥深さに強く魅せられるようになりました。以後も週に一度ぐらいは必ず訪れていますが、その間にめずらしい本、貴重な資料を見つけた経験も数多く、古書店の主人から書物のことを教えられたこともあります。手に入れたばかりの本を近くの喫茶店で開くのを、いまでも最大の楽しみとしています。伝統ある二つの町のたたずまいは、東京の中心部にふさわしい品位を備えているようです。


繁昌→これで「はんじょう」なんだね。
繁盛とどう違うのかな?
神保さんっていう旗本さんが居たんだねぇ。



散歩はまだまだまだまだ続く。

2017/08/27 02 神保町散歩 03 小学館・集英社/救世軍本営/中猿楽町/矢口書店/神保町愛全公園/東亜高等予備学校跡

白山通りから靖国通りに入ってすぐに外れて北に向かう。
google mapに小さな公園が二つ表示されていたので、
行ってみることにする。



小学館集英社

奥が小学館で、手前が集英社
隣り合ってるとは思わなかったなあ。



救世軍本営

万国的ムーブメントである救世軍は、
公同のキリスト教会における福音主義を代表する一派である。
そのメッセージは、聖書の基盤に立ち、
その働き(ミニストリー)は、神の愛に動機づけられ、
その使命は、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、
イエス・キリストのみ名において、
分けへだてなくすべての人々のニーズに応えることである。


と、HPに書いてあった。
詳しい人を知っているので後できいてみよう。



◆矢口書店

靖国通り沿いにあった。
映画・演劇関係の古書を扱うお店とのこと。
この看板建築がいい感じ♪
今度来ることがあったら中に入ってみよう。



◆中猿楽町



 ここはかつて中猿楽町と呼ばれていました。
 室町時代以降、猿楽(のちの能楽)は、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座(かんぜざ)」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。
 この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、「中猿楽町」という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。
ところで町内には、大正三年(1914年)、中国の留学生が日本国内で進学する際、欠かすことのできない日本語や英語、数学などを専門に教える東亜高等予備学校が設置されました。中華人民共和国成立後、国務院総理(首相)を務めた周恩来(しゅうおんらい)も、大正六年(1917年)から約二年間、この学校で学んでいます。
中猿楽町はその後、昭和九年(1934年)、神保町二丁目と西神田一丁目の一部に組み込まれました。この地域の町会は、その名に「中猿」の二文字を残し、神田中猿町会と名乗っていましたが、昭和二十九年(1954年)四月、神保町と西神田の町名から「神西(じんせい)町会」と改めて、現在に至っています。




◆神保町愛全公園

人が写ってませんが、タバコをふかすおじさんが沢山いた。




◆東亜高等予備学校跡


周恩来(しゅうおんらい)ここに学ぶ



 日中両国の人々が敬愛する周恩来総理は、1898年3月5日江蘇省淮安に生まれました。周総理は1917年(大正6年)に19歳で日本に留学。この地(当時はかんだ区中猿楽町)にあった東亜高等予備学校(創立者・初代校長=松本亀次郎)で日本語を学び、大学進学の指導を受けました。そのころ、日本政府の対中国政策に反対した松本亀次郎校長の心請にも影響を受け、1919年(大正8年)には帰国して天津の南関大学に学び、新中国の建設に身を投じました。
 周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年にあたり、東亜高等予備学校の跡地であるこの場所に、周恩来が学んだことを示す記念碑を、千代田区の歴史の一コマとして建立します。日中友好の気持ちをこめて・・・・・・。


神保町愛全公園の中にあった。



散歩はまだまだまだまだまだ続くのだ。

2017/08/27 01 大手町散歩 03 和気清麻呂公銅像/震災いちょう/不二ラテックス/一橋徳川屋敷跡/一ツ橋/錦橋

和気清麻呂銅像




 奈良朝末期の廷臣、地方の豪族出身で藤原仲麻呂の乱天平親神護一年(765)道鏡が好意をうかたっが時、宇佐八幡の信託をきき道鏡の野望を挫いました。
 清麻呂別部穢麻呂と改名され大隈(鹿児島)に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰しました。
 光仁桓武天皇深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しています。
 この像は、昭和15年紀元2600年記念事業として建立、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。




◆震災いちょう




 この木は、震災いちょうと呼ばれています。樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、かつて文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にありました。
 大正十二年(1923)九月の関東大震災により一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。
 その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒される事になった際、中央気象台長岡田武松氏がこれを惜み、なんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。


岡田武松(1869〜1924)
 千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長を経て明治三七(1904)年海洋気象台の創設とともに台帳となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線送受信設備の完成、海洋気象観測設備を充実させたことや、測候技能館養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正一三(1924)年にイギリスの王立気象学会からサイモン金牌をおくられ、昭和二五(1913)年には文化勲章を受ける。

清野長太郎(1869〜1924)
 香川県に生まれ、東京大学法科卒業後、旧内務省警保局にはいり、富山県理事官・神奈川県理事官を経て内務省事務官となり、明治三六(1903)年に人口学版国会議の委員としてベルギーへ派遣される明治三九(1906)年に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正二(1913)年までこの職にあった。
 大正五年以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。


お二人ともすごい人ですなあ。



◆不二ラテックス

何の会社でこのビルの形は何なのかはご想像にお任せする(w



◆一橋徳川屋敷跡


ここも工事中・・・・。
でも、こうやって写真だけでも残しておいてくれると助かるね。


 一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
 一ツ橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張紀伊・水戸)にも将軍家となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は二世治済(はるさだ)の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。



◆一ツ橋








 この橋を一ツ橋といい、内濠川に架かる見附橋です。徳川家康江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(1624〜1645)には、一ツ橋とかかれています。
 橋のちかくに、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八大将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人して居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
 明治六年(1875)一つ橋門を撤去。現在の橋は大正十四年(1925)架設、長さ19.6メートル、幅28メートル、コンクリート造り。
 橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。



一橋大学の名前の由来もここにあるんだね。



◆錦橋





橋の説明板がなかったなあ。
wikiで調べると、
『完成は1927年(昭和2年)5月5日で、震災復興橋の一つとして架設された。中央のアーチと、左右に対称の半連アーチを持つコンクリート製アーチ橋である。名称は近隣の地名である錦町および錦町河岸からつけられたが、これは近くに「一色」という武家屋敷が2軒あり、「二色→錦」と転化したものである。』



散歩はまだまだ続く。
首都高をくぐったところから、次の散歩エリアへ。

2017/08/27 02 神保町散歩 01 如水会館/東京外国語学校発祥の地/新島襄生誕地/東京大学発祥の地/学士会館

一ツ橋を見た後は、隣にあった錦橋を見たくてそちらに移動。
また戻ってきて神保町駅の方に向かって歩く。



如水会館

如水会館のHPはこちら↓
https://www.kaikan.co.jp/josui/
結婚式場などがあるね。
ビアガーデンいいなあ。
5000円かぁ・・・・。


ちょこっと調べると・・・・。
一橋大学の前身、東京高等商業学校があった場所とのこと。
「申酉(しんゆう)事件」などの歴史が・・・・
wikiのページを見るとものすごい情報量。
後日ゆっくり調べることとする。


如水会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%B0%B4%E4%BC%9A


「申酉(しんゆう)事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E9%85%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6




◆東京外国語学校発祥の地




東京外国語大学の起源は 安政1(1857)年に創設された 蕃書調所まで遡るが, 直接の前身である東京外国語学校が開設されたのは, 明治6(1873)年11月1日, この地(当時の 東京府神田区一ツ橋通町一番地)においてであった。
東京外国語大学は この日を建学記念日として, ここに碑を建立する。




新島襄生誕地



京都同志社創立者 新島襄先生は1843年(天保十四年)上州安中藩主・板倉伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた。
先生は幕末における国家多難の際、わが国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して二十一才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得せられた。
母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が『知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め』うるものであり『良心の全身に充満したる丈夫(ますらを)』となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた。
留学十年、1874年(明治七年)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。
この碑は新島襄先生生誕百年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説を掲示するものである。




東京大学発祥の地


学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。
 すなわち、明治十年(1877)4月12日に神田錦町三丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。
 創立当所は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。
 明治十八年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。
 したがって、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。
 明治十九年三月東京大学帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名づけられた。
 更に、明治三十年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。
 爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学大正7年北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。
 昭和二十二年(1947)に至って、右の7帝国大学はそれそれ東京大学京都大学東北大学九州大学北海道大学大阪大学名古屋大学と呼称が変更された。
 明治十九年七月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。




学士会館


ここも結婚式場などあるようだ。
先ほどの如水会館の近くなのに!
すごいね・・・。



学士会館のHP
http://www.gakushikaikan.co.jp/



新島襄生誕地
東京大学発祥の地
は、この敷地の中にあり、それぞれこの地を指している。



散歩はまだまだ続く。