2017/08/17 淡路町散歩 10 法政大学発祥の地/小栗上野介屋敷跡/お茶の水石碑/駿河台(西)/御茶ノ水橋/御茶ノ水駅

明大通りは何度も通ってる場所なのに、こんなに碑があるんだね。
御茶ノ水橋は渡らず、駅に直行。



◆法政大学発祥の地




 法政大学の前身である東京法学社は、1880(明治13)年4月、旧駿河台北甲賀町十九番地
池田坂上(現在千代田区神田駿河台一丁目八番十三)に設立されました。
 翌年五月、東京法学社の講法局が独立して東京法学校となり、その開校とともに日本近代法の礎を築いたフランス人法学者ボアソナード博士による講義が始まりました。
 その後、和仏法律学校を経て、1903年8月、法政大学と改称されました。



小栗上野介屋敷跡



1827年
小栗上野介ここに生まれる
ここに生まれ育った小栗上野介(1827〜1868)は、幕末の外交・財政政策をリードし、横須賀に大造船所を建設して我が国の造船業が近代化する道を開いた。




お茶の水石碑

聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし


再校江戸砂子より

慶長の昔 この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた



駿河台(西)

高台である「駿河台(するがだい)」は元来、本郷(ほんごう)・湯島台(ゆしまだい)と地続きで、その南端に位置し、「神田山(かんだやま)」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発(ひんぱつ)するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀(そとぼり)の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈(かいわい)は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
さて、家康が駿府(すんぷ)で没した後、家康付(いえやすづき)を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(はたもと)(駿河衆(するがしゅう))たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛(なかのぼうちょうべえ)、また、幕末には勘定奉行(かんじょうぶぎょう)や軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)を勤めた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明(かとうたかあき)男爵邸、坊城俊長(ぼうじょうとしなが)伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。
明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町(するがだいにしこうばいちょう)、駿河台北甲賀町(するがだいきたこうがちょう)、駿河台南甲賀町(するがだいみなみこうがちょう)、駿河台袋町(するがだいふくろまち)、駿河鈴木町(するがだいすずきちょう)(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目(するがだいいっちょうめ)、駿河台二丁目(するがだいにちょうめ)に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。



御茶ノ水





特に説明板はなかった。
反対側にわたっていればあったのかなあ?
今度探してみる。



御茶ノ水

ゴール!!
実はこのルート、何年か前にも歩いたことがあるルートだった。
視点を変えると見えてくるものが変わるね。
で、やっぱり何か所か見逃したところがあったので、もう一度行かなきゃだ。