2017/08/17 淡路町散歩 09 仲坂/池田坂/雁木坂/大久保彦左衛門屋敷跡/佐々木政吉胸像/佐々木東洋胸像

御茶ノ水駅のすぐ近くまでやってきた。
坂だらけだね!
一つ一つ丁寧に坂の名前がついているのがすごい。
大学関係の建物が多く、学生がいっぱい居た。



◆仲坂


この坂だけは、詳しい説明が書いてなかった。
なんでだろう?
WEBで調べても出てこなかった。



◆池田坂


この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。
「新撰東京名所図会」には「池田坂は、北工が町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に、池田氏の邸宅ありしより以て名とす。一命を唐犬坂といふぞ。「新編江戸志」には。唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋舗に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百五区の旗本と考えられます。




◆雁木坂



 この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木が組まれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。「新撰東京名所図会」には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。



◆大久保彦左衛門屋敷跡

何にも説明がないので調べた。
けど、この場所にまつわるものは見つけられなかったので、
「大久保彦左衛門」で調べてみた。
この名前は通称で本名は「大久保 忠教(ただたか)」


wikiでは
『戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川氏家臣・大久保忠員の八男。』
とあり、
徳川家康徳川秀忠徳川家光 三代にわたって仕えたとのこと。
テレビドラマにもなっているねぇ。


墓所は3か所あるが都内にあるのは一か所で、
東京都港区白金の智光山立行寺にあるという。
今度行ってみよう。




◆佐々木政吉胸像


安政2年、江戸生まれ。
大学東校を卒業後、明治13年から5年間ドイツ遊学し、帰国後、日本人として最初の東京帝国大学医科大学教授に就任。
明治21年、本邦医学博士第二号として医学博士授与。
明治24年、官命によりロベルト・コッホツベルクリン療法調査研究のためドイツへ出張。
明治27年、佐々木研究所の母体となる研究室を自邸敷地に新築。
明治29年、佐々木東洋の後を受け杏雲堂医院院長に就任。
平塚市結核療養所を設立。
大正5年、顧問に就任。大正13年、古希をもって引退。
明治14年、85歳で没。



◆佐々木東洋胸像



天保10年、江戸本所四つ木生まれ。
佐藤泰然の佐倉順天堂塾を経て長崎へ留学し、ポンペからオランダ医学を学ぶ。
東京に戻り、明治4年に大学東校医長に就任。
博愛舎、東京府立病院を経て、
明治7年、36歳で大学東校病院長に就任。
就任後、政府の脚気病院で洋方医部門を担当したが、
明治15年に42歳で神田駿河台に杏雲堂医院設立。
東京医師会本部幹事、神田区医師会会長を歴任。
この間、戊辰戦争西南戦争に軍医として参加。
明治29年、57歳で引退し佐々木正吉が杏雲堂医院長に就任。
大正7年、80歳で没。



大久保彦左衛門屋敷跡の碑
佐々木政吉胸像
佐々木東洋胸像


この三つは、同じ植え込みの中にあり、大久保彦左衛門屋敷跡の碑は通りに向かって建っており、あとの二つの胸像は反対側にある病院に向かって建っていた。
その病院が、杏雲堂(きょううんどう)病院だった。
ものすごく古い歴史のある病院なんだね。



続く。