2017/09/07 02 水道橋散歩 02 濟生學舎発祥の/お地茶の水坂/元町公園/建部坂(初音坂)

外堀通りお茶の水坂を上って下りた。
お堀側の歩道を歩くと、順天堂の前まで反対側に渡る歩道がないんだね・・・・。
かなり距離がある。



◆濟生學舎発祥の地




 明治9年(1876)4月9日, この地に, 医学者・長谷川泰(1842〜1912)によって, 「濟生學舎」が開校した。濟生――“広く民衆の病苦を済(すく)う。” この願いを 込めて, 医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に, 西洋医学を志す優れた学徒が多数集まった。明治12年冬, 火災により校舎を失い, 学舎長の自宅 (現本郷2-7-8)とその隣地に移転, 明治15年, 現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地) に, 本格的校舎を建設し, 附属蘇門(そもん)病院及び薬学部を付設して, 「東京医学 専門学校濟生學舎」と称した。
 かくして, 学舎は隆盛の一途をたどったが, 事情あって, 明治36年(1903)8月31日, 創設者・長谷川泰みずから廃校を布告して, 28年間の歴史を閉じた。その間, 2万1千 余の男女学生が学び, 9千6百余の医師を輩出し, わが国黎明期の医学振興, 地域医療 に果たした役割は極めて大きい。
 「濟生學舎」の廃校直後から, これを惜しむ教師・学生達によって, いくつかの医 学講習会が設けられたが, その一つを母体にして明治37年4月, 「私立日本医学校」 が設立され, 現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し, 濟生學舎教育の精 神は受け継がれていった。また, 学舎ゆかりの「東京女子医科大学」, 「東京医科大 学」も, それぞれの道を歩み発展していった。




◆お地茶の水坂




この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり"お茶の水"として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
『御府内備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと…」とある。
この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。

お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
寒む夜はふけてわれは行くなり
島木赤彦(1876-1926)





◆元町公園

トイレ借りた。



◆建部坂(初音坂)



 『新撰東京名所図会』に「富士見坂の北(注・西)にある坂建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり 因(よっ)て此名に呼び做(な)せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋坂を見ると,建部坂の上り口 西側一帯(現在の元町公園)に 建部氏の屋敷が見える。直参、1400石で、880坪(約2900?)であった。
 『御府内考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗(やしき)は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては 12月の内でも鳴くので、自然と 初音の森 といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森と言っている。 初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。



水道橋駅でゴール。
雨のせいなのか、坂が多かったからなのか、歳のせいなのか、かなり疲れた。