2017/11/15 ポケカルの旅 05 正宗寺(しょうじゅうじ)

ちょっとしたトラブルがあって日が落ちる直前に最後のお寺に到着。
あぶないあぶない。







佐々宗淳(さっさむねきよ)の墓




 水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は、本名を佐々宗淳といい、字(あざな)を子朴(しぼく)、通称を介三郎、十竹と号し、寛永十七年(1640)、戦国大名佐々成政の姉の孫、佐々直尚の五男として瀬戸内海の一小島に生まれた。十五歳で京都妙心寺の禅僧となり、祖淳と号して修行に励んだが、その後還俗して江戸に出て、延宝二年(1674)徳川光圀に仕え、進物番兼史館勤務となり大日本史編さん事業に従事した。史料の収集のために、畿内をはじめ北陸・中国・九州などを訪れて貴重な文書記録を集め、元禄元年(1688)からは彰考館総裁を務めた。また、光圀の命で下野国那須国造碑の修復や、摂津国漆川の楠公碑建立の現場で帰任者としても活躍した。元禄九年(1696)彰考館総裁を辞し、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄十一年(1698)六月三日に五十九歳で没し、妙心寺と同じ臨済宗政宗寺に葬られた。墓碑は宝永元年(1704)に養子の藤蔵宗立が建て、碑文は格さんこと安積澹泊(あさかたたんぱく)である。




佐竹一族の墓
                                                                                             


 正宗寺の裏山にある宝篋印塔は、墓塔の四隅の突起が直立に近いという中世の特徴を示していることから、佐竹一族の墓と伝えられている。境内の各所に散在していたものを戦後集めたもので、十三基が確認されているが、誰の墓なのかはわかっていない。
 平安時代の末に初代昌義が佐竹郷に来往して以降、四百七十年にわたって常陸太田地方を治めた佐竹氏は、豊臣秀吉から五十四万五千八百石の所領を安堵されたが、関ヶ原の戦い後の慶長七年(1602)に秋田国替えとなった。菩提寺があった政宗寺のほかに、静音寺(東茨城郡城里町)や浄光寺(市内塙長)、常光院(市内久米町)にも、佐竹一族の墓と伝えられる宝篋印塔や墓石がある。





狛蛙?




                                                                                                                      








臨済宗円覚寺派で萬秀山政宗寺と称し、佐竹氏の菩提寺であった。延長元年(923)に平義将(たいらのよしまさ)が律宗の増井寺を建立したころに始まる。
その後真言宗に変わり勝楽寺(しょうらくじ)と改称され、鎌倉時代には八代行義(ゆきよし)が寺中に正法寺(しょうぼうじ)を建立した。南北朝時代になり、九代貞義の庶長子月山週枢(がっさんしゅうすう)が臨済宗に改め、夢窓国師を中興(ちゅうこう)の勧請開山(かんじょうかいざん)とし、自らは開基二世となり寺中に政宗庵を営んだ。室町時代、十代義敦(よしあつ)が庵を寺とし、政宗寺が初めて興った。当時は寺勢が盛んで関東十刹(かんとうじっせつ)のひとつにまでなった。
 江戸時代には徳川家光より朱印百石を拝領し、初代頼房(よりふさ)以来、歴代水戸藩主の尊崇も厚い寺であった。天保九年(1838)、総門(市指定文化財)を残し焼失し、現在の本堂は昭和六十三年(1988)に建てられた。
 現在、本尊の木造十一面観音菩薩坐像のほか夢窓国師頂相(ちんそう)や月山和尚頂相、水墨画家雪村周継(せっそんしゅうけい)の瀧見観音図など、寺宝が数多く残されている。(いずれも県指定文化財
 裏山の中腹には、佐竹一族の墓といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)や、テレビ番組・水戸黄門の「助さん」のモデルとされる佐々宗清(さっさむねきよ)の墓がある。




コチラが最後だった。
盛りだくさんで楽しかったけど、疲れた旅だった(w