新高円寺まで北上。
こんなにお寺がたくさんあるエリアだと思っていなかった。
当寺は、松苔山峯巌院と号する浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来坐像です。
「文政寺社書上」によると、元和三年(1617)四谷追分(現新宿区新宿3丁目23番・新宿駅北側付近)に開山である本蓮社心誉利通により開創されました。一説には慶長二年(1597)開創ともいわれています。
開基は、徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長といわれ、その由緒を称え、忠長の法号「峯巌院」を寺号とし、忠長の豊臣家との縁により、寺紋は「五三の桐」にしたと伝えられています。
その後も寺地を替えることなく四谷追分にありましたが、文政十二年(1829)、明治三十一年と二度の火災に遭い、大正九年、中央線の拡幅と道路の拡張のため現在地へ移転してきました。
昭和二十年五月、戦災により堂宇の悉くを焼失しました。現在の伽藍は、昭和五十六年五月に再興されたものです。
当寺の所蔵する「絹本著色阿弥陀三尊来迎図」は、十四世紀仏画の白眉といわれています。
その他、境内には承応二年(1653)銘の六観音石幢、延宝七年(1679)銘の如意輪観音像など多数の石仏や、明治の豪商山城屋和助の墓、あるいは食鳥を供養する鳥塚(明治三十八年造立)や外南洋機動舟艇部隊殉難烈士供養塔などがあります。
また、墓地中央の供養塔には、区制施行以来の区内御許不明行旅死亡人の遺骨が安置されています。
絹本著色阿弥陀三尊來迎図 一幅
本図は阿弥陀如来が観世音菩薩と勢至菩薩を従えて、往生者を迎えに来る典型的な「阿弥陀三尊來迎図」で、鎌倉末期から南北朝期(十四世紀)のものと推定されます。
三尊の間に空間を作り出し、その中に穏やかに翻る雲や天衣を描く作者の技量は高く、長さ220㎝に及ぶ画面の大きさは、現存する仏画では最大級のものです。
更に、四周を飾る描表装がほぼ完全に残されているという点でも、当時の仏画の好例として貴重なものです。
石造観音六面幢
この六面幢は総高262cmの単制六面幢で、笠にワラビ手の飾りがついた比較的類例の少ないものです。造立年代は承応二年(1653)で建立者は西方寺第八世単巻上人と言われています。六面幢の大半が六地蔵なのに比べ、この六面幢は六観音を浮き彫りにしているのが特徴です。又念仏供養のために造立された六観音のひとつ、聖観音像の下に「此一躰者、庚申為供養」と記していることも注目すべき点です。形態も優れ江戸時代初期の庚申信仰の資料として大変価値が高いものです。
当寺は、日登山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅本尊です。
寺伝によると、寛永六年(1629)麻布北日ヶ久保(現港区六本木6丁目)に開山最上日任、開基陽証院日乗により開かれました。当地は年貢地で742坪、元、麻布本村の名主又左衛門の所有地を赤坂の住人久保屋三右衛門が買取り、寄進したといわれています。
開山最上院日任は、池上本門寺の触頭、承教寺の住僧であったことから、当寺は池上本門寺の末寺として開かれたと考えられます。その後、一時碑文谷法華寺(現目黒区円融寺)末となり、元禄六年(1693)には小湊誕生寺末として、身延山久遠寺の指揮下に入りました。
元禄八年二月八日、四谷伝馬町よりの大火は当寺にも及び、その後も宝暦六年(1756)、同十年、弘化二年(1845)と度々の火災は堂宇と寺宝を焼き尽くしました。従持は、その旅毎に再興に努めましたが、弘化の火災では伽藍の整備には至らず、大正二年(1913)寺院の発展を図って、現在地に移転してきました。
しかしここでも関東大震災、太平洋戦争と二度にわたる被災により堂宇に損傷を受け、昭和四十年以降寺内を整備し、現在に至っています。
また当寺には、当初朱塗りの山門があったことから赤門寺ともよばれていました。
文化財としては、承応二年(1653)銘の一塔両尊像、寛文年間(1661-73)造立の日蓮上人像、享保十一年(1732)造立の日蓮大菩薩五輪塔などがあります。
片岡山智光院は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏です。
「御府内備考続編」によれば、江戸時代初期の寛永七年(1630)、上野東叡山(寛永寺)東側の車坂下に片岡大麟によって開創されたといわれています。
智光院の院号は開基である旗本天野周防守雄光の室(北畠大納言具教の息女)の法名・智光院殿に由来しています。
元禄十一年(1698)車坂下から浅草新寺町(現台東区西浅草)に移り、その後中興開基とされる旗本佐藤駿河守吉次によって諸堂宇が整えられたと伝えられています。そして、武家の江戸寺として天野家・佐藤家をはじめ、伊予の加藤家、近江の遠藤家などの手厚い保護により寺運を伸展しました。しかし、安政二年(1855)十月の江戸大地震では本堂の倒壊という被害を蒙っています。
大正元年、区画整理のため現在地に移転し今日に至っています。
墓地には文化・文政期(1804-29)にかけて江戸北町奉行として活躍した永田備後守正道の墓があります。
また寛正年間(1460-65)造立の板碑が保存されているほか、承応四年(1655)につくられた地蔵菩薩坐像も安置されています。
なお、本堂は中野区福蔵院の本堂を移築したものです。
当寺は、月高山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は昭和四十一年に開眼した転法輪の釈迦如来です。
「御府内備考続編」によれば、寛永四年(1627)江戸下谷池ノ端七軒町に高山全得(本寺・白泉寺5世)を開山とし、然通堯廓を開基として開創されました。
当寺には、大名旗本が多く帰依し、殊に江戸初期の老中阿部豊後守忠秋は、当初の本尊虚空蔵菩薩や秋葉権現を寄進するなど、信仰が厚く、その後も阿部家による信心は明治維新まで続いたといわれています。
その秋葉権現は、霊験あらたかなことから、人々は当寺を秋葉寺と呼び、参詣人が多いことから秋葉横丁ともいわれました。また、上野山の紅葉が不忍池に映える絶景な場所にあったことから紅葉寺とも称されました。
しかし、池ノ端の地は湿気が多く、伽藍の腐食も激しく、又墓地にも適さなかったことから、大正2年現在地に移転してきました。
昭和二十年五月二十五日、戦火を蒙り、伽藍は全焼し、古記録・什宝も烏有に帰しましたが、昭和四十一年に近代的な伽藍が復興されました。
墓地には、杉田玄白と共に「解体新書」を訳した江戸の蘭学者・前野良沢の墓があります。
なお、かつては良沢の遺品なども伝わっていましたが、戦災により残念ながら焼失してしまいました。
その他に文化財としては、寛保二年(1742)銘地蔵石像などがあります。
当院は、陽光山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は金銅釈迦如来像です。
開創は「文政寺社書上」によると、慶長十六年(1611)江戸南八丁堀(現中央区八丁堀)に寺地を拝領して創建され、その後、寛永十二年(1635)浅草新堀端(現台東区元浅草)の替地へ移転したとなっています。
開山は出羽国庄内総穏寺の二世雲外嶺瞰(1650年寂)で、開基は古渓宗心記室禅師、中興開基は九鬼大隅守隆寛です。
元禄四年(1691)、隆寛の祖父、丹波綾部藩主九鬼家の家筋の隆幸が葬られて以来、心月院は当家の菩提寺となり、九鬼隆寛が寺容を整えました。
大正二年、浅草区の区画整理によって、現在地に移転する際、九鬼家は出自の和歌山県に転居し、同時に墓所も移しました。
なお、当院は嘉永四年(1851)類焼し、古記録を焼失し、当地においても昭和20年5月に戦災を蒙り全焼しており、詳細は明らかでありません。
また、名前のいわれについては、寛永十一年(1634)九鬼良隆が、摂津国三田の曹洞宗梅林寺を心月院と改めたことから、江戸の心月院の院号も九鬼氏によって命名されたものと思われます。
松栄山大法寺は、日蓮宗の寺で本尊は、慶安二年(1649)大願主当寺開山「利生院日善」銘のある日蓮上人坐像です。
当寺は、寛永八年(1631)に現在の新宿区牛込榎町で開創されましたが、寛文三年(1663)と江戸時代末期の二回の火災にあい、その後明治42年、現在地に移転したものですが、現本堂は昭和55年に新築されたものです。
開山は、利生院日善、開基は、旗本浅香伝左衛門直良といわれています。
当寺は、寛文三年の火災後、元禄五年(1692)に二世日堯が、檀家である旗本浅香安右衛門直武および、その子である幕府御植木奉行・御畳奉行等を勤めた伝左衛門直良の土地寄進により再興したものといわれています。
なお、当寺の境内には、江戸時代の戯作者・松亭金水(文久二年1862没)、女団十郎といわれた女優の市川九女八(大正二年没)等の墓があります。
新高円寺からはルック商店街を北上。
高円寺の自宅に到着しゴール。
思っていたよりかなり時間がかかった・・・・・・。