旧東海道を西に進んでいく。
気が付いたら京急八丁畷駅まで来ていた。
◆芭蕉の句碑
俳聖松尾芭蕉は、元禄七年(1694)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
麦の穂をたよりにつかむ
別れかな
の句にたくしました。
芭蕉は「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風(しょうふう)」を確立し、同じ年の十一月、大阪で、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
という辞世の句をのこし、五十一歳の生涯を閉じました。
それから百三十四年後の文政十三年(1830)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室(ばいしつ)に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
◆地蔵尊
このお地蔵さまに関する情報は得られなかった。
◆無縁塚
八丁畷駅に隣接していた。
八丁畷の由来と無縁塚
東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
こなたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることが分かりました。
江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としてます。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬してのではないでしょうか。
不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。
◆旧東海道碑
八丁畷駅の道路挟んで向こう側にあった。
横着して手前から撮ったのでガードレールが写っている(w
◆夫婦橋
現地には何もなかった。
写真でもわかるように橋もない。
帰ってから調べると、熊谷酒店さんの自販機の横に「夫婦橋」と書かれた石が残っているとのこと。
そこまで見てなかった!!!
旧東海道からそれて国道15号に出る。
この歩道橋を渡って国道の反対側にある神社を目指した。
続く。