2019/05/04 調布の掩体壕巡り 03 龍源寺/掩体壕(大沢2号)/掩体壕(大沢1号)/調布飛行場/調布駅

お昼ご飯の後は、近藤勇墓所をめぐり、残りの掩体壕二つをめぐる。
ものすごい雷雨があり、ヒョウまで降ってくる(w

この辺りも一度来ている。
2017/02/13 part6 武蔵野の森公園の掩体壕/龍源寺 - ovanの社会科見学




◆龍源寺










近藤勇の墓」
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流の四代目を襲名した。
文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間、新選組として活躍した。
京都、烏羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
慶応4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳。
法名は貫天院殿純義誠忠大居士





掩体壕(大沢2号)







調布飛行場
 調布飛行場昭和13年(1938)に東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多磨村(現在の府中市)にまがたる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は昭和14年(1939)に東京府逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年の4月には南北方向に1000mと東西方向に700mの2本の滑走路と格納庫などが完成しました。初め、予備国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため戦闘機「飛燕(ひえん)」を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945)頃には日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました・またこのころには特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には「進駐軍」(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設されました。
 現在では伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布飛行場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが市民団体の努力で残されています。


掩体壕
掩体壕」とは軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
 太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944)頃から、コンクリート掩体壕約30基(有蓋)と土嚢で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
 掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和への語り部」として保存しています。


掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」
「飛燕」は川崎航空機製でドイツのダイムラーベンツの技術をもとに国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
 エンジン出力は1100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、航空能力に優れ昭和18年(1943)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
 また鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています






なんとヒョウが降ってきた(w




掩体壕(大沢1号)









説明板は2号のとほぼ変わらない。




調布飛行場






調布駅




飛行場からバスで調布駅まで移動。
調布駅で晩御飯・・・というか飲み。
とても楽しい一日でした。