まだまだ東へ進み第一京浜へ出る。
第一京浜を少し北に進み桂坂を西へ進む。
東芝山口記念会館からは桂坂をそれて洞坂を西へ進む。
◆旧竹田宮邸洋館
竹田宮
『竹田宮(たけだのみや)は、明治後期に北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)、恒久(つねひさ)王が創設した宮家である。現在の皇位継承問題などと絡んで旧皇族の中では露出度が高い。 』
竹田宮 - Wikipedia
ここに展示されている石は、 江戸時代に、 高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
平成7年(1995)、 高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。 3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
ー詳しいことは、 港区立港郷土資料館でお尋ねください一
港区旧町名由来板 高輪
この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から 「高輪」となりました。古くから海沿い
に人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東海道を整備し、これにより街道治いに町が広がっていきました。
この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東神単寺など多くの名跡があります。
芝車町
旧江戸の入口のこの地は、 江戸初期には下高輪村と呼ばれていました。寛永11年(1634)京都の牛持たち(牛車運搬業者) が召し寄せられ、 増上寺安国殿普請(ぞうじょうじあんこくでんふしん)などで石材の運搬を勤めていました。 市ヶ谷辺りの牛小屋に住んでいた牛持たちは御用が済んだ後も帰郷はかなわず、 寛永16年(1639)三代将軍徳川家光の意向により、諸国から船で届いた荷を運ぶのに都合のよい土地を与えられ移り住んで来たことにより、高輪海辺四町余を車町と唱えるようになりました。
明治2年(1869)頃にはまだ牛小屋が数軒残っていたため通称 [牛町] とも言われ、「高輪牛町十八町、 牛の小便長いネ~」 などと童子が唄いながら遊んでいたのもこの頃のことです。
芝高輪北町
古くは荏原郡下高輪村のうちで、 人家は少なく海辺の縄手でしたが、江戸時代に入り街道が整備されて、 高輪大木戸から品川宿までの十八町の間は引手茶屋などで賑わっていました。 中町·南町に対して北に位置していることから高輪北町と唱え、正徳3年(1713)町奉行支配となりました。
東海道から少し山手に入ると、 北町の横に高輪北横町があり、 武家屋敷や寺社の地となっていました。 明治2年(1869)に高輪北横町と高輪常光寺門前、 明治5年(1872)には武家地寺社地を合併しています。
坂上。
むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が 品川からの帰途 急死したからともいう。
◆柴田錬三郎旧居
柴田錬三郎
『柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名は齋藤 錬三郎(さいとう れんざぶろう)。シバレン(柴錬)という通称でも名高い。 』
柴田錬三郎 - Wikipedia
著作がたくさんあるが、どれも読んだことがない・・・・。
『眠狂四郎』シリーズ があるのだけは知っていた。
邸宅や住まいに関する信頼できる情報が無かったので、こちらで合っているかどうかは未確認。
◆東芝山口記念会館
建物のまわりが木で覆われていて窺い知ることができない。
一般の人は入れないようだね。
WEBで検索するとpdfファイルがTOPで出て来て、拝見するとかなり立派な建物だった。
http://asumo.in.coocan.jp/walking1/6-01a.pdf
◆洞(ほこら)坂
坂上。
入口は少し上り坂。
奥左に曲がったところから急な下り坂になっていた。
写真左側は東芝山口記念会館の敷地。
ほらざか 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たとも,またくぼ地だから洞という等様々な説がある。
続く。