2021/06/13 02 江古田散歩 03 西武池袋線踏切/南長崎6丁目児童遊園/世子観世音/金井塚/江原公園/須賀稲荷神社

南西へ向かって西武池袋線の踏切を渡る。
金井塚から西へ向かい須賀稲荷神社から北へ向かう。



西武池袋線踏切












南長崎6丁目児童遊園









◆世子観世音











◆金井塚



google mapのマークの位置は上の写真の所辺り。
説明板などは見当たらなかった。

『 金井塚(中野区江原町1-9〜11付近)=現在は宅地。
かつて直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚であったとされる。』
江古田・沼袋原の戦い - Wikipedia


この「facebook」のページはかなり参考にした。
ここから西のエリアは「塚」がたくさんあり、記事にした。









◆江原公園









◆須賀稲荷神社



 はるか昔から、中野区江原町3丁目17番地(現・こぐま公園のある所)に二つの小さな祠があり、それぞれ牛頭天王(ゴズテンノウ)と宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)が祀られておりました。
その祠の西側では清水がこんこんと湧きでて、細い流れをなしていたことから、土地の人々が五穀の豊穣と疫病除けを祈願して祠を祀ったものだと伝えられています。悪疫の流行を防ぐ神として「じゅくじゅく天王様」と庶民から親しまれ、多くの信仰を集めてきました。
牛頭天王は悪疫を防ぐ神の素戔嗚尊スサノオノミコト)と同一され、また社名の「須賀」とは、天照大神の弟である素戔嗚尊が出雲の国の斐伊川の上流でヤマタノオロチを退治した時に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と述べ、宮居を創立したという故事にもどつき名づけられた名称です。
「宇迦之御魂」は稲魂(イナダマ)の意で、「稲荷」の語源である稲成(イネナリ)、つまり、稲の育つ様を言い表した言葉から来たとされています。
 江原町は昭和30年代になって、人口増と東京オリンピック開催を契機に道路整備が進捗し、目白通りの交通量が激増し、天王様の境内での祭礼、町の諸行事の開催は危険な為、困惑しておりました。
地元有志の努力により現在地に二神を合祀して移転し、昭和42年2月13日に宗教法人須賀稲荷神社を創立、昭和47年1月に諸建物の建設を起工、同年6月25日に神社、社務所(公民館併設)、神楽殿が完成しました。その後江原町公民館運営委員会や町会、若睦が管理運営を行ってきましたが平成17年5月29日「須賀稲荷神社氏子会」が発足され現在に至っています。


楽殿


先客










続く。