入谷駅東側エリアをブラブラしながら南東へ。
◆秋葉神社
明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天王御母)の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始めである。明治21年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる。秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。
現在秋葉原駅のある辺り、度々起こった大火災を機に、明治二年には広大な火除地が設けれ、翌三年その中央に火防(御宮)が創建されました。これが当社の始まりで、以降東京一円の火災鎮護の祈願所として「秋業さま」と親しまれたことからこの地はいっしか「秋葉の原」等と呼ばれるようになりました。
現在の『秋葉原』の名称の由来もここから来ています。
鉄道開通,駅設置のため明治二十一年に神社は現在地に遷座されましたが、その後も現在まで変わらず篇い崇敬を集めています。そして旧跡地に設置された駅には「秋葉原」の名が残されたのです。
梅田雲浜(うめだうんぴん)墓
雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜(おばま)藩士、矢部岩十郎の次男として、文化十二年(1815)六月七日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。
朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永五年(1852)幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し尊王攘夷論を唱え、梁川星巌らとともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政五年(1858)の「安政の大獄」で捕らえられた。翌6年9月14日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久二年(1862)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている
◆かっぱ橋本通り
商店街♪
商店街のかっぱ
◆芝崎日枝神社
東光院門前と言った当地を、明治二年、日輪寺門前と合わせて芝崎町とした。明治五年には寺地も併し、一帯が芝崎町となる。
芝崎の由来は、日輪寺がその昔芝崎村にあって、平将門の霊伝説により開いた念仏道場「芝崎道場」によるものである。
芝崎村のあったところに二説あり、一説は神田橋御門内、もう一説は大手町財務省付近と言われている。
東光院についてはその昔小伝馬町にあったのが、明暦の大火で類焼し当地に替え地となったものである。
ながらく浅草芝崎町と称していたが昭和四十年の住居表示の変更で西浅草三丁目となり、芝崎町の名も消えてしまった。その後「芝崎町西町会」の町会名として復活、現在に至る。
青空写真館
◆東光院
かっぱさん
続く。