2022/06/10 日本橋本町散歩 02 十軒店跡/三井本館/日本橋三越本店/理容歴史散歩/本町薬問屋発祥の町碑/雲母橋跡

まだ三越前駅周辺を散歩。




◆十軒店跡



この地は江戸時代より十軒店と呼ばれ正月の羽子板・破魔弓、三月の雛人形、五月の武者人形など節句用品を商う店が軒を連ねて時季には盛大な市が立った。
原 舟月や川端玉山ら江戸の人形師に加え近代には永德齋、玉翁などが名工として知られたが関東大震災と戦災により多くの店が焼失、最後まで残った玉貞人形店も平成十年代に閉店した。
昭和七年、十軒店町は室町三丁目に編入された。日本の人形文化を育んだ町、それが十軒店であった。









◆三井本館



横河民輔が設計を手掛け、1902年(明治35年)に竣工した旧三井本館は関東大震災で建物は地震による被害は皆無だったが、屋根や窓廻りからの類焼で建物内部が大きな被害を受けた[1]。このため、三井合名は仮本社にて新社屋建設構想に入り、社長の三井八郎右衛門高棟は、「震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」と命じ、それを受け理事長の團琢磨は「壮麗(grandeur)」「品位(dignity)」「簡素(simplicity)」の三つの具体的デザインポリシーを掲げ、これらの思想を具現化するために、米国のトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所を設計、ジェームズ・スチュワート社を施工に選定し、工事が着手、1929年(昭和4年)3月23日に竣工、6月15日に開館した。総事業費は2,131万円(当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコスト)だった[1]。
完成した本館は「アメリカン・ボザール」と呼ばれる新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)地下2階建て。当時としては丸ビルに次ぐ大ビルだった[2]。外壁は花崗岩茨城県産稲田石)で仕上げられ、道路に面する主要なファサードは、特徴的なコリント式のオーダーが乗る列柱を整然と並べ、水平コーニスと三井主要各社の業務内容を表現したレリーフが配され、さらに上階のセットバックにより、重圧感の軽減が図られた[1]。関東大震災の教訓からその2倍の地震にも耐えることができるように作られた建物は、エアシューターや全館完全空調が導入されたほか[3]、格納する三井銀行、信託の大金庫の扉は米国モスラー社製で、重量が50トンもあった[4][5]。このため、陸上輸送すると、まだ木造だった日本橋落ちる心配があったため、新常盤橋ぎわまで船で運び、陸揚げして運び込んだ[4]。近年、川から陸揚げを行っている写真が発見された。
本館には、三井合名、三井銀行三井物産三井鉱山、それに新設の三井信託の5社が本社を置いた[2][5]。
昭和金融恐慌の際に三井はドルを買い占めたことを批判され、理事長の團は財閥に対する非難の矢面に立たされ、1932年(昭和7年)3月5日、本館入り口で、血盟団の菱沼五郎から狙撃され、絶命した。
詳細は「血盟団事件」を参照
終戦を経て1947年(昭和22年)まで4・5階の一部は、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収された。 』
三井本館 - Wikipedia









日本橋三越本店










◆理容歴史散歩

江戸時代の丁髷から見える日本橋町民の生活文化
1603年徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、日本橋はすべての街道の原点として、また、江戸に息づく人々の生活文化を全国へ発信する起点として大きな役割を果たしてきました。 全国から集まる侍、様々な技を持つ職人、商人、芸人衆に加え江戸町民が暮らす生活文化は圧巻でした。 浮世床(髪結)では時には江戸町民の地位、階級や職業、そして心意気を表す術でもあった髪型(丁髷)には、男達も結構拘っていたようです。
京都から下ってきた「高尚で」「伝統の都」からの文化が次第に江戸町民文化へと昇華されていく中で丁髷スタイルは時代と共に変化を続けていきますが、明治維新の文明開化、男子の丁髷廃止、断髪の号令などによって西洋風髪型へ変化。他国に類例を見ない習俗の革命でした。それはまさに丁髷は古代から営々と継承されてきた日本の束髪の歴史の終焉であり、最後の「束髪式髪型」でした。欧米の文化を取り入れ、日本の男性を断髪させ、姿形を西洋化することは当時の理髪師の苦悩と努力を抜きには語れません。西洋式技術の伝搬、道具の輸入、改良、医師から学ぶ衛生消毒思想と設備の導入など、西洋式理髪の普及に奔走した先達に改めて敬意を表したいと思います。西洋理髪、理髪外科医にルーツに辿る「ヘアサロン大野グループ」の心はまさにここにあります。移り変わる時代の空気感を全身で受け止め、「技術の心」 「心の技術」の精神で進化してまいります。










◆本町薬問屋発祥の町碑











◆雲母橋跡(西堀留川)

現地には説明版など見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。
WEBで調べても情報がないね・・・・。
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
(o*。_。)oペコッ

西堀留川
『西堀留川(にしほりどめがわ)は、東京都中央区に存在した河川。日本橋川から北側に入り室町方向にL字型に折れる水路であった。 』
『西堀留川(伊勢町堀)は、まず旧石神井川石神井川はかつて日本橋周辺で隅田川に流れ込んでいたとされる)から日本橋室町方面に掘りこまれ、石神井川が埋め立てられ堀留となって、L字型の流路になったといわれる。
西堀留川は塩河岸があった昭和通りより西側が1886年明治19年)に埋め立てられ、1928年(昭和3年)に関東大震災のがれきを埋め、昭和通りから日本橋川合流点まで埋め立てられ水路は消滅した。一方東堀留川は戦後のがれき処理まで存続していた。 』
西堀留川 - Wikipedia









続く。