2022/06/10 日本橋本町散歩 01 パレスサイドビル/神保町駅/三越前駅/日銀/町年寄 樽屋藤左衛門屋敷跡/町年寄 喜多村彦右衛門屋敷跡

24時間勤務アケで、東京メトロ半蔵門線三越前駅から同じく日比谷線人形町駅まで散歩。





職場から東京メトロ半蔵門線神保町駅まで徒歩移動。
その後は、半蔵門線三越前駅へ電車移動。
三越前駅周辺を散歩。





パレスサイドビル

職場スタート!










神保町駅

東京メトロ半蔵門線に乗車。





花が綺麗だったので撮った。










三越前駅




「熈代勝覧(きだいしょうらん)」



東京は、 戦災や高度経済成長期等の過程で地域を象徴するような歴史的な建造物やまちなみが失われ、旅行者が江戸・東京の魅力を感じながら散策を楽しむことができるまちなみが少なくなっています。
 この「熙代勝覧」絵巻の展示は、地域の団体が主体的に行う情緒あるまちなみ整備の取り組みを促進する 「江戸東京・まちなみ情緒の回生事業」の一環として、東京都中央区の支援を受けて実施されました。
 今から200年ほど前の江戸一番のにぎわいをじっくりご堪能いただければ幸いです。



とざい東西、ここにくり広げたる絵巻は大江戸八百八町のなかでも、とりわけ名高い日本橋
時は、十一代徳川家斉の世の文化二年(1805)
所は、日本橋から神田今川橋までの大通り、その間七つの町があり
繁華に行き交う人を数えてみれば千六百七十一人、そのうち女性は二百人
それに犬二十匹 馬十三頭 牛四頭 猿一匹 鷹二羽
通りに出でたるものは、魚・青物の販売 食べ物の立売薬・本・古着の行商
回り髪結 寺院勧進の一行 六部 巡礼 虚無僧
辻駕籠 飛脚 登下城の武家の一行 雛市の賑わい お江戸見物の人々
「熈ける御代の勝れたる大江戸の景観」をとくとご覧あれ










◆日銀

中を見学したことがある。
2015/02/26 part4 日本銀行 - ovanの社会科見学











◆町年寄 樽屋藤左衛門屋敷跡

現地には説明版など何も見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。
ここで合っているのかどうかはわからなかった。

『樽屋与左衛門(たるや よざえもん)は、江戸町年寄三家の1つ樽屋の当主。
樽屋は代々藤左衛門を名乗ったが[1]、後見役となった9代目・11代目・12代目の3名は与左衛門を名乗った。』
樽屋与左衛門 - Wikipedia










◆町年寄 喜多村彦右衛門屋敷跡

現地には説明版など何も見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。
ここで合っているのかどうかはわからなかった。

『江戸初期の江戸町年寄の祖。徳川家康の関東入国時に遠江(静岡県)から供をしたという。江戸の城下町建設に努力したが,馬の飼料の仕事をしていたという伝承もある。町支配を3人の年寄のひとりとして行ったが,同時に関八州の連雀商人の札座をも兼ね,のちには長崎糸割符の特権を与えられたという。のち町支配の業務は婿である彦右衛門に受け継がれた。彦右衛門は金沢の商人の出身で,大坂の陣にさいし他の町人と共に前田利常の陣中見舞いに大坂へ出かけたが,このとき家康の目にとまり,金沢での町支配の実績を評価され,江戸に出府したという。以後,代々町年寄の業務に従事した。<参考文献>吉原健一郎「町年寄」』
喜多村弥兵衛とは - コトバンク


近くにあったクスノキ



にほんのクスノキ
樹齢100年とも推定されるこのクスノキ は、日本橋より東海道山陽道へつながる長崎街道の入り口ともいえる「北九州・旧黒崎」宿の街道脇に、長年に亘って2本並んで佇んでいたものです。その堂々とした姿はまさに御神木 と呼ぶに相応しいもので、五街道 の起点に再生された「日本橋室町野村ビル」の守神として、約1,000kmの道のりを経て移植されました。敷地の北西と南東に植えられた2本のクスノキが、一方は旧中山道 と旧日光街道 の分岐点に立ち、これからも多くの人々の往来を見守り、一方は再興された福徳神社 の御神木として日本橋の街の未来を見守ってくれることを願っています。










続く。