2022/07/17 半蔵門散歩 04 TOKYO MX/㈱エフエム東京TOKYO/半蔵門/隼町/平河町壱丁目/貝坂/国民民主党本部

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/07/17/210000






TOKYO MX東京メトロポリタンテレビジョン









◆㈱エフエム東京TOKYO









半蔵門









◆隼町

 江戸城内堀に面したこの界隈には、 徳川家康が江戸にやってきた当初、鷹匠たちの屋敷がありました。 鷹匠とは、 タカやハヤブサを飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。 つまり、隼という町名は、鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。
 江戸時代、このあたりには、播磨明石藩松平家や、三河田原藩三宅家などの武家屋敷や、火消役屋敷がありました。
 田原藩の家老となり、 画家・思想家としても名高い渡辺崋山も、この地に生まれ、生涯の大部分を過ごしました。
 元禄年間(1688~1704) 麹町通りに面した町屋裏の武家地 (現・麹町一丁目五番地および七番地)は町人地となり、麹町隼町と呼ばれていました。 それが、 明治五年(1872) 麴町一丁目に含まれることになったため、南側の武家地だったこの一帯に、由緒ある 「隼町」という町名が付けられることになったのです。
 明治以降、町内には陸軍の施設であった教育総監部、東京衛成病院、 航空本部などが立ち並び、 隼町は軍と関係の深い土地になりました。
 そんな隼町に、 昭和四十一年 (1966) 日本の伝統芸能の保存と振興のために国立劇場が開場しました。 同四十七年(1972)、 その隣に最高裁判所が建ち、 また同五十四年(1979)には、 国立劇場敷内に国立演芸場が開場しました。 国立劇場および演芸場は、 歌舞伎・文楽や落語・講談などの伝統芸能の公開、調査研究を目的とした施設です。
 こうして戦後の隼町は、日本の司法と伝統文化にかかわる町として生まれ変わったのです。










平河町一丁目

 平河 (平川) は、古代以来の中心的集落として平川の下流 (現在の一ツ橋・大手町付近)にあった地名で、平川村と呼ばれていました。 平川村は、明暦三年(1657) の大火で現在の場所に移され、平河町と改名、一丁目から三丁目ができたといわれています。
 平河天神は、文明十年 (1478) 太田道灌による創建当初、 江戸城内梅林坂付近にありました。 徳川家康による江戸城整備が始まると平川御門外に移され、慶長十二年(1607)、現在の場所に遷座されました。
 天神社の境内には、上野寛永寺の末寺である龍眼寺が別当寺として置かれていました。 広大な境内では縁日のほか芝居や相撲興行などもおこなわれ、 周辺も店屋や町屋が並ぶなど、たいへん賑やかな町になりました。
 明治二年(1869)、麹町龍眼寺門前が元平河町と町名を改めました。 麴町平河町一~三丁目は、ほぼ江戸時代の町割のままで、 明治四十四年 (1911) 麹町の冠称がはずれ、 平河町に変わりました。 そして、 昭和九年 (1934) 元平河町平河町一~三丁目が合併し、 現在の平河町一丁目が誕生しました。 このとき平河町四~六丁目も平河町二丁目となりました。
 天神社は第二次世界大戦で焼失してしまいましたが、いまは平河天満宮として立派に再建され、 参拝者で賑わっています。










◆貝坂

坂上



坂下。



江戸時代、この場所は甲州街道沿いにあたり、そこにあった一里塚が「甲斐塚」と呼ばれていたという説と、かつて貝塚があったことから貝坂と名付けられたという説があります。









◆国民民主党本部

現地ではそれらしいものが見つからなかった。



google map のマークは上の写真のところあたり。

『国民民主党(こくみんみんしゅとう、英: Democratic Party For the People[10]、略称: DPFP、DPP)は、日本の政党。穏健保守からリベラルまでを包摂する改革中道政党を創るとしている[6]。代表は玉木雄一郎。2018年に結成し2020年に解散した同名の政党の部分的な後継政党として2020年に結党された。
略称は「民主党」、「国民民主」、「国民」 なども使用される。 』
国民民主党 (日本 2020) - Wikipedia









続く。
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