2023/02/19 下里本邑遺跡公園








ここは遺跡公園です
 この団地の建てられている場所は、旧石器時代から奈良・平安時代の人々の生活跡です。 団地ができる前は野原で、 1978年に確認調査、1981年に建設部分の発掘調査が行われました。 そして、 遺跡の中心部分の約8000 ㎡²が保存され、下里本邑遺跡公園として整備されました。

ここは昔の生活跡です
 この場所は、約3万~1万年前の旧石器時代、8000年~5000年前の縄文時代、 2000年前の弥生時代、1200年前の奈良・平安時代の人々が生活したムラの跡で、長い歴史がこの地下に眠っています。確認発掘調査を行った結果、 当時の住居跡や石器・土器などの道具が発見されました。

ここは遺跡の展示館です
 この場所には「下里本邑遺跡館」があり、調査で発見された8000年前の河原にあった生活跡が復元されています。 また、調査風景の写真とともに、旧石器時代のナイフ形石器や細石器、縄文土器や石器、 奈良・平安時代の土
器などの出土品が展示されています。



 遺跡がある場所は、むかし下里の「本邑」と呼ばれていたことから、それが遺跡の名前になりました。
 黒目川と出水川が合流するこの場所は、日あたりの良い高台と、豊かな水の流れ、さらに川の脇に広がる河川敷があることから、原始・古代の人々が住む理想的な条件を満たしていました。
 下里本邑の地に最初に人が住み始めたのは、氷河時代の終わりころにあたる旧石器時代(今から約三万年前)で、ナウマンゾウやオオツノジカなど大型動物の群れを追って生活する狩人の時代でした。
 今から約一万年前ころになると次第に暖かくなって氷河時代が終ります。
 縄文時代になると、台地と川岸を利用したムラがつくられるようになりました。ところが、縄文時代中期を過ぎると生活の跡がとだえます。
 そして弥生時代を迎えます。 下里本邑遺跡は、東久留米市域で弥生時代のムラがつくられた唯一の場所です。台地の上から、竪穴住居跡とともに方形周溝墓が発見されています。 方形周溝墓は、当時の指導者の墓です。 推定ですが、黒目川の川岸近くに水田があった可能性も考えられます。
 その後、この場所からまたもや人間の生活の跡がとだえます。
 奈良時代の終りころ(今から一二〇〇年程前)になると再びムラがつくられるようになり、それは平安時代まで続きました。
 下里本邑遺跡は、いくつもの時代にわたって生活の場となった 「複合遺跡」と呼ばれる貴重な遺跡です。そのため、このような大切な文化財を後世の人々に伝えようということになり、遺跡の主要部分約八〇〇〇平方メートルが保存され、遺跡公園として整備されました。さらに公園内の低地部分には、下里本邑遺跡の特徴を説明して土器や石器類を展示した「下里本邑遺跡館」もつくられました。
 みんなでこの下里本邑遺跡を大切に守っていきましょう。







弥生時代の方形周溝墓’ほうけいしゅうけいぼ)



 弥生時代末葉(約一六〇〇年前)の下里本邑遺跡にはかなり大きな集落(ムラ)があったことが予想されますが、ここからは方形周溝墓と推定される遺構が発見されました。
方形周溝墓とは弥生時代後期から古墳時代のはじめ頃にかけてつくられた墓の一種で、溝で方形に区画し、その中に土拡(穴)を掘って死者を埋葬した施設です。そこに埋葬された人は、ムラの指導者的立場にあった人と考えられます。
 下里本邑遺跡の場合は確認調査であったため全体を掘っていないのではっきりしたことはわかりませんが、一辺が九メートル程の溝で囲まれた方形周溝墓と考えられます。







平安時代の住居跡



 この場所には、発掘調査によって発見された平安時代(約一〇〇〇年前)の住居跡が埋没保存されています。
 東西三六、南北二・ハメートルの長方形の住居跡です。 カマドや柱の跡はなく、ごく簡単な作りの住居だったと思われます。
 現在公園となっているこの台地には、同じころの住居跡がまだ他にも残されていると推定されます。







旧石器時代の礫群



 この台地上からは旧石器時代(約三万~一万年前)の生活跡が発見されました。
 旧石器時代の日本列島は、現在より気温が七~八度も低く、オオツノジカやナウマンゾウなどの大型の動物が棲んでいました。当時この地に暮らした人々は、石の道具(石器)を使って大型動物の群れを追って生活する
かりゅうど狩人たちだったと考えられています。
 ここに復原されているのは「礫群」とよばれるものです。焼けた石が集まっていることから、当時の調理の場と考えられています。






場所はコチラ