2023/03/06 秋津神社



当神社のご祭神日本武尊ヤマトタケルノミコトは日本古代史における伝承上の英雄です。「古事記」では倭尊命と記し「日本書紀」では日本武尊と記します。
古事記にはヤマトタケルが父の景行天皇から不信の念を抱かれ、西征・東征と目覚ましい武勲をたてていくも、最後には父にまみえることが無いまま倒れる、何とも劇的なストーリーです。
西方の熊襲征伐には童女に紛して川上条師カワカミノタケシに近づきこれを討ち、また東征の蝦夷平定に向かう途中、天叢雲剣アメノムラクモノツルギで野火の雛をはらい、走水ハシリミズの海で、姫の弟橘比売命オトタチバナヒメノミコトの入水により海上の難を逃れたが、伊吹山で賊を征伐中、伊勢の能褒野ノポノで崩じた。死後その霊は白鳥となり大和に渡ったとされております。
この様に日本武尊は日本神話において最も武力に優れた英雄的な神で、半神半人である点などもギリシャ神話における最大の英雄と言われた、ヘラクレスを彷彿とさせる多くの活躍が記紀に記されています。
秋津神社の創立由緒については明確ではありませんが、文政三年に記された「武蔵名勝図会」によれば、元弘の戦いの際に新田義貞日本武尊の武威を慕ってこの地陣をはり、不動像をかけて祈念したことから、その後不動像を安置して鳥居を設けて祀ったことが創始という。因って平成三十年より遡るおおよそ六百八十年ほど前に建立されたことになります。
明治三十八年調製の「社寺台帳附社寺明細帳」によると「天授年中ノ創立ナル事ハロ碑ノ伝フル所ニ微シテ明也、寛永年中聖護院宮御参拝当時、同宮ヨリ当村開始ノ祖神ナルヨリ、村名ヲ冠シ秋津神社ニセヨトノ御伝詞フ賜ル、併二提灯ニ張フ献ゼラレタル事ハ古老ノ口碑ニス」とあり、村民持ちの不動堂がこれにあたるようである。
「また「風土記稿」には「不動堂、無年貢地、二段七畝、足も新田にあり、三間四方の堂にて南に向ふ、本尊は霊像なりとて見ることをゆるさず、前に鳥居をたつ、村民四郎左衛門が持ちなり」とある。
そして、この本殿内には石造舟型の不動尊像があり、背面下面の銘文からは、人間郡安松の長源寺の住僧宝応が元禄十二年(一六九九)四月に寄進したことが記されており、この頃には確かに南秋津に不動堂が位置していた。南秋津村下組の鎮守として「秋津のお不動様」と呼ばれ親しまれ多くの参詣者があり、緑日はとても賑わったとのことです。尚、当社の例大祭は七月二十八日ですが、この日は不動明王の縁日であり、かつて不動堂だった時の名残をそこに見ることができます。

本殿再建時期
文化財専門委員会の調査によれば、現在の本殿は文政四~五年の間(1821~22)あるいは文化七年(1810)に本殿が再建されたと思われる。
社殿は一間社流造りの本殿に三間四間の覆屋をかけています。
また、本殿の彫り物の正面と側面には、司馬温公のかめ割、鶴に乗った仙人などきわめて美しく、精巧な彩色彫刻が施されていて、文政再建当時のおもかげは見る人を惹きつけてやみません。





◆庚申堂





◆石灯籠





境内社





◆石像






境内社と石塔

両方とも何を祀っているのかわからなかった。





◆神楽殿





◆御神木





◆力石



石の由来
秋津神往昔,不動尊とよばれていました。
その頃は娯楽も少なかったので若者たちはここに集まってこの石をかついでかくらべをしたり相撲をとったりして楽しんだそうです。
石の目方は
右六十八メ余二五五キログラム
中三十七八一三八キログラム
左三十五人余り一三一キログラム





◆鳥居





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