2023/05/22 愛染院


弘仁年間(810年 - 824年)に弘法大師空海が開山したとも、1611年(慶長16年)に正斎が開山したともいわれている。空海説を採った場合、正斎はそれを中興したのだという。元々は、現在の麻布善福寺の地にあり、その後、正斎によって麹町に置かれ、1634年(寛永11年)に現在地に移転した
墓地には、内藤新宿の開設に努めた高松喜六や『群書類従』の編者の塙保己一の墓がある。塙保己一の墓は、元々近くの「安楽寺」にあったが、1898年(明治31年)に廃寺となったため、当院に移葬された。 』
愛染院 (新宿区) - Wikipedia



山号
山号獨鈷山 光明寺
本尊
大日如来
宗派
真言宗 豊山
総本山
長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師
宗祖  弘法大師(空海)
中興祖 興教大師(覚鑁)
派祖  専誉僧正
沿革
文政寺社書上に拠れば「當寺開闢之儀は人王五十二代嵯峨天皇御宇弘仁年中弘法大師関東弘法之為當國に一宇御建立今之麻布善福寺之地也然に當院は右奥之院にて御守本尊五指量愛染尊を安置し大日如来よリハ祖相承の獨鈷を納め給故に山号を獨鈷山と申候愛尊は秘法にて不能住職之僧も拝其後星霜相移り年月相知れ不申候』と伝えて その由することの頗る古きを語、慶長当時の開山正齋(寛永十五年十二月五日寂)はその中興と称して居る



高松喜六の墓
 内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16knm) の高井戸であり、大変不便であったので、元禄
十年(一六九七)に同志四人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。
 翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金五六〇〇両を納め、問屋・本陣を経営した。 喜六は正徳三年(1713) 八月に没したが、 高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
 墓石は高さ80cmで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。

塙保己一の墓
 「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享三年(一七四六)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。姓は荻野、幼名は辰之助といった。
 五歳で病にかかり、七歳で失明したが、 十三歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、 その本姓塙をもらった。
 優れた記憶力を認められて学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。
 天明三年(1783)に検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手がけたが、寛政五年(1793)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
 文政二年(1819) に 『群書類従』を完成させ、同四年には惣検校となったが、同年九月に『続群書類従」の編纂なかばで没した。享年七十六歳であった。
 墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが、 明治三十一年(1898)に廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103cmである。





◆梵鐘



総丈
136㎝ 口径7㎝
鐘聲(しょうせい)
黄鐘調(おうしきちょう)
「およそ鐘の聲は黄鐘調なるべし、これ無常の調子、祇園精舎の無常院の聲なり」(徒然草第220段)
乳の間
百字真言を陽刻
池の間
銘叙は江戸湯島霊雲寺第四世法明識す愛染院現住堯範(ぎょうはん)これを造る
寶曆(ほうれき)十禩(し)歲次庚辰夷則穀日(こうしんいそくこくじつ)
※宝暦10年(1760) 7月8日
※纏=祀
この鐘は太平洋戦争の金属回収令により供出したが百字真言や叙は貴重なものとして返却され、鐘楼は戦火により堂宇と共に焼失した





◆石塔





◆山門





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