2023/05/22 須賀神社


『東京都新宿区須賀町に鎮座する神社で、江戸時代には四谷総鎮守の天王様として信仰を集めた。主祭神須佐之男命(須賀大神)、宇迦能御魂命(稲荷大神)。主祭神の左右には五男神天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、宗像三女神多紀理姫命市杵島姫命多岐都姫命)が祀られている。』
須賀神社 (新宿区) - Wikipedia

お詣りに来たことがある。
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由緒
須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永11年に江戸城外掘普請のため当地に移されたものである。
須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年島原の乱日本橋、大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、寛永20年、神田神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永21年6月18日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。明治元年須賀神社と改称され、明治5年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された、
戦災前の御社殿は文化11年8月に起工し、15年の歳月をかけ、文政11年12月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが、昭和20年5月24日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と摂社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した。然し戦後氏子崇敬者の赤誠により今日の復興を見るに至った。

宝物
戰前は多くの社宝があったが戦災により殆んどが焼失した、その中で幸いにも御内陣の金庫に納められていた三十六歌仙のみが辛うじて焼失を免れ、今日新宿区の指定有形文化敗絵画に指定されている。
画は四谷南蘋と称された高芙蓉の高弟大岡雲峰(当時七十三歳、天保七年の作)書は千々酒舎と号し、正三位中納言で公家の千種有功郷の書である







◆四谷の総鎮守 「須賀神社」と三十六歌仙

[須賀神社について]
 四谷の産土神(うぶすながみ) で、 祭神は建速須佐能男命(たけはやすさのおのみこと) と宇迦能御魂命(うかのみたまのみこと) の二柱です。
 かつては、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と稲荷社の二つの神社であったもので、江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、 明治にはいり須賀神社と改められました。
 稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。
 一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、 一ツ木村の鎮守であったものが、 同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、 そこの僧侶が社僧として神社の儀式に携わりました)が、寛永11年 (1634) に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。
 もう一つは、稲荷社は、 現在の勝興寺 (須賀町八番地) 境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連縄飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年 (1634) に勝興寺が移転してきた時、 相談のうえ宝蔵院 (現在の須賀神社)に遷座したという説です。
 牛頭天王社のほうは、寛永18年(1641) に、 神田明神境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祀を建て祀ったものだそうです。
 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年 (1644) 寺社奉行に願い出て、 同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。
 以来、 稲荷は鮫河橋 権田原の、 天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています。

三十六歌仙絵・・・ 新宿区指定有形文化財 絵画] (昇殿拝観は許可制です。)
 三十六歌仙絵は、 平安時代中期の公卿藤原公任(ふじわらのきんとう) (966~1041) が、 過去および同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、 万葉歌人から柿本人麿・山部赤人大伴家持の三名、平安時代前期の 『古今集』 『後撰集』 頃の歌人から紀貫之 在原業平 小野小町ら三十三名が選ばれています。
 三十六歌仙絵は、それぞれの歌人肖像画に代表作一首を書きそえたもので、 平安時代後期に出現した似絵(にせえ) という肖像画の影響をうけ、鎌倉時代初頭に成立し、江戸時代まで盛んに描かれました。
 須賀神社三十六歌仙絵は、 三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたものです。 縦55cm・横37cmの絹地に彩色したもので、現在は額装され社殿内に掲げられています。
 当時、画家として高名だった四谷大番町(大京町)に住む旗本大岡雲峰 (1764~1848) の絵と、 和歌や書画で人気を博した公卿千種有功 (ちぐさありこと) (1797~1854) の書により、 天保7年(1836) に完成 奉納されたもので、 四谷の総鎮守として信仰をあつめた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つです。



 三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966~1041)が、過去及び同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人大伴家持の三名が、平安時代前期の「古今和歌集」「後撰和歌集」頃から紀貫之在原業平小野小町ら三十三名が選ばれている。
 須賀神社三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを、額装して拝殿内に掲げている。
 天保七年(一八三六)に奉納されたもので、当時、文人画家として高名だった四谷大番町(現在の大京町)の旗本大岡雲峰(うんぽう)(1764~1848)が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797~1854)が書を担当した。
 四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。
 なお、三十六枚の作品の詳細については、新宿ミニ博物館「須賀神社三十六歌仙絵」の掲示板とパンフレットに解説を掲載している。
三十六歌仙絵は、拝殿で儀式を行っている時は拝観できません。また、神社の許可なく昇殿することはできません。





◆天白稲荷神社





◆「く組」梯子塚





◆祖霊社



 須賀神社が古い歴史と今日のような立派な御社殿と荘厳なる境内を保ち、御神威四方満ちて御社頭の御繁栄を遂げておりますことは、此れ偏に須賀神社創立以来、数百年に亘りまして心を戴いて参りました、歴代の宮司を始め神社責任役員各町氏子総代、四谷惣町睦会、四谷第三区四番組等区内多くの氏子崇敬者各位の御蔭と存じ、この祖霊社に奉斎致してあります。私共は今日あるを喜び、すでに帰天の霊となられました諸先輩の方々の、御霊をお祭り致すことに偏って祖先崇拝の精神を涵養(かんよう)し皆様と共に感謝の誠を捧げ、日々御神明の御奉仕を致したいと思います。






◆神楽殿





◆女坂

坂上




坂下。





男坂





◆鳥居





◆鳥居





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