2023/10/04 新宿十二社熊野神社


何度か来ているが、細かく見ていなかった。
今回一通りm

『由緒
当神社は中野長者と呼ばれた室町時代紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年 - 1428年)に創建されたものと伝えられている[2]。(天文・永禄年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もあり)鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。かつて存在した付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる。
かつては神社境内には大きな滝があり[4]、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた[5]。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約100軒も並んでいたという。この賑わいは戦前まで続いていた。
その後明治時代に入り名が熊野神社となり、その後神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成や付近の開拓により姿を消し景勝地としての様相は徐々に見られなくなっていった。しかし、熊野神社はその後付近が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも新宿一帯の守り神として人々から信仰を得ている。
祭神は櫛御気野大神(くしみけぬのおおかみ)・伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)。 』
熊野神社 (新宿区) - Wikipedia



七人役者図絵馬(しちにんやくしゃずえま)
 安永二年(1773)四月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、拝殿内に掲げられています。
 板地着色で、縦136、横180㎝。図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役者の扮装姿と十二支の動物が描かれています。
 図中の役者は、当時の名優三世大谷広次や後に十二代目羽左衛門を襲名する市村亀蔵らを中心とした市村座の役者たちです。
 この絵馬の作者一筆齊文調(いっぴつさい ぶんちょう)は、江戸時代中期、明和から寛政にかけて、優れた役者絵を描いて活躍した浮世絵師です。
新宿区指定有形文化財 歷史資料

式三番奉納(しきさんばんほうのうがく)
 上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内に二枚が掲げられています。向って右側は宝暦十四年(一七六四)に九代目市村羽左衛門が、左側は弘化四年(一八四七)に十二代目市村羽左衛門がそれぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦90.7cm、横31.4cmあります。
 図柄は、江戸三座のひとつ市村座で、十一月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から三日間演じられた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門自身が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。
 式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。





◆十二社弁財天





◆講碑

「延命院羅尼」
「二千一百萬遍」
と読めるが、間違っていたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>





◆清水長雄胸像



感謝状
あなたは明治33年10月山梨県北巨摩郡明野村に生を享けられ、幼少より叡智衆にすぐれ人を卆いる徳望は齢十有九歳にして早くも明野村青年団長の選ばれ、次で立憲青年党を組織してその充実を図り、青年の政治意欲を鼓吹されましたが、このことはまたあなたの今日を約束づけるものでありました。大正10年あなたは公務員を志して群馬県庁に奉職されましたのを第一歩として、内務省兵庫県、警視庁、商工省、及び軍需省の各要職に歴任、往くところ可ならざるはなき名声を博し、その精勤は報いられて、正五位勲五等に叙せられました。
昭和20年官を辞して金属回収統制株式会社代表取締役に就任されましたあなたは、政府の方針に従い全国戦災跡地の整理と十億に及ぶ債務の整理に努力せられ戦後の復興に大なる貢献を致されました。昭和22年推されて東京都議会議員に立候補されました。あなたは政治に対する関心と熱意に加えて、多年官界民間にあって蓄積された才腕と人徳は衆望翁然とあつまり見事に当選。爾来蛟龍の雲雨を得たるごとく、忽ちにして都政界の重鎮となられ、議長、副議長、委員長、都議会自由民主党政務調査会々長、同幹事長、その他各種と正の枢機に参画されまた全国都道府県議会議長会々長等の要職にも就かれ、この間欧米各国を歴訪されること二回。つぶさに行政制度の調査オリンピック大会東京招致の要請等に努力せられ、東京都はもとより全国の地方自治行政の発展に貢献されるとともに地元新宿区の繁栄のため終始尽力され、遂に新宿副都心の計画に成功する等、その功労まことに大なるものがありました。またあなたは全国知事会、全国都道府県議会議長等、地方六団体の財政確立対策協議会委員として常にその職責完遂に努力されておりますが、議長として在任中、政府の昭和34年度地方税財政措置策定の過程においては、その代表として地方自治財政確保のため寝食を忘れてこれが貫徹に邁進され、遂に目的を達成せしめました功績は地方六団体が感謝状を贈って衷心よりその心労を多といたしたところであります。
この度、議長を辞せられるに当り東京都議会はあなたの偉大な功績に報ゆるに胸像一基を贈り、深甚なる感謝の意を表します。 



 元都議会議長従四位勲三等清水長雄先生は東京都政に参与して地方自治行政に盡瘁すること実に二十有五年に及ぶ 偶々副都心の議起るや時の安井誠一郎知事に献言し百年の計策を以てその構想を進め遂に新都心の実現を見るに至れり
 茲に先生の懿徳を敬慕する有志等相議り地を十二社神苑内にもとめて先生の壽像を清水邸より此処に移し また新に顕彰之碑を刻し 以て新都心の發展と曠古の繁栄を祈念するもの也






◆石塔





◆太田南畝(おおたなんぽ)の水鉢



 文政三年(1820)三月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌大田南畝(蜀山人) (1749~1823)の書による銘文が刻まれています。
 外部は幅150㎝、高さ60cm、奥行64cm。内部の鉢の部分は幅126㎝、深さ23cm、奥行40㎝あります。






大鳥神社(十二社熊野神社末社


熊野神社狛犬



 享保十二年(1727)に奉納された一対の石造狛犬で、区内に現存する狛犬としては比較的古い時代に造立されたものである。
 この狛犬熊野神社境内社大鳥神社の社殿に向かって、右側に阿形(あぎょう)(頭部に角(つの)を持たない獅子)が、左側に吽形(うんぎょう)(頭部に一角を有する狛犬)が安置されている。
 狛犬と台座は一つの石材から彫り出されており、腹の下はくりぬかずに残され、享保十二年九月の年紀と角筈村上町の百姓店衆講中(ひゃくしょうたなしゅうこうじゅう)という奉納者銘が刻まれている。
 総高は、阿形が112.5cm、吽形が113,5cmで、安山岩製である。
 享保年間(1716~1736)には、 十二社熊野神社周辺が江戸西郊の景勝地として知られるようになった。
 狛犬は、この時期に地元の講中より奉納されており、姿の珍しさとともに貴重である。





◆神楽殿





◆神輿蔵



 神輿は、神社の例大祭などで氏子区域を巡幸するもので、古くは奈良時代の記録に見られます。
 普通は木製黒塗で、四角造・六角造・八角造・お宮造などの形式があります。 主に屋根・胴・台輪の三部分からなり、屋根上には鳳凰を置き、台には二本の棒を貫きます。 神社祭礼の神輿は、通
常この棒を肩でかつぐ形です。
 この神輿蔵には、神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦(むつみ)の町神輿(大人神輿-と子供神輿)が保管されています。
 宮神輿は、昭和三年(1928)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、大祭に巡幸します。





◆十二社の碑(じゅうにそうのひ
[::image:w360]



 ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(1851)三月に建てられました。
 高さ210cm、、幅119cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒(てらかどせいけん)と中野宝仙寺の僧侶負笈(ふ きゅう)道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は二六二字あります。
 また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は二八六字に及びます。
 なお、書は中川憲齋名は大彭(たいほう)、日本書堂は号)によるものです。





◆鍼術島川玄丈の碑

碑文が読めなかった。
こちらに情報があった↓
参考
~鍼の大家、島川草玄とは?~ - 東京都新宿区牛込柳町駅そばにある鍼灸マッサージ院。子育てママさんの味方。小さなお子さん連れでも入れます。社交ダンス選手のために社交ダンスに特化したコースがあります。| あじさい鍼灸マッサージ治療院





地蔵堂





◆新宿ミニ博物館 「十二社熊野神社文化財



①十二社と熊野神社の歴史
 十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間 (1394~1428) 中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州熊野三山より十二所権現をうつし初ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあった渡辺興兵衛が、 天文・永禄 (1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、 熊野権現を伺ったともいいます)。
 鈴木家は、紀州腺代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、 自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、 中野長者と呼ばれる資産家になったため、 応永10年 (1403) 熊野三山の十二所権現すべてを伺ったといいます。
 この十二所が、昭和45年(1970) までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つにする相(双) 最形式で十二の社を伺った十二相 (双) 殿からきたという説もあります。 江戸時代の文献にはこの他、十二店・十二荘・十二 ・ 十二層などの記述が見られます。
 神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 また、享保年間(1716~35) には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、 滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
 明治維新後は、現在の御気大神(須佐之男命の別名) ・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
 氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。



② 十二社の池と滝
 江戸時代以来、西郊の景勝地として賑わった十二社には、かつては大小2つの池と、いくつかの滝がありました。

十二社の池
十二社の池は、慶長11年 (1606) 伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、 現在の熊野神社西側、 十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
 大池は、南北126間・東西8~26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、 中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれまし
た。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。
 池の周囲には享保年間(1716~35) 頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820) の熊野神社の祭礼の時には角乗筏乗などの見世物ができたりしました。
 明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭 茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート屋形舟釣り 花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋立てられました。
 小池は、大池の北側に隣接し、 下池、下の溜井と呼ばれました。
 大池を分水したもので、 南北50間 東西7~16間ありました。
 昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941) 7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。 小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。

十二社の滝
 熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、 あたりの風致に彩りをそえていました。
 記録や古老の話から、つぎのような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。
① 大滝
 『江戸名所図会』 『江戸砂子』 などに熊野の滝 萩の滝と記された滝で、高さ三大・幅一丈と伝えられます。 この滝は寛文7年(1667) に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水水堀(現在の新宿区立区民ギャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。
 池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、 明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の 『怪談乳房榎』 の中で、 この滝を登場させています。
 しかし明治25年(1892) 頃、 淀橋浄水場の工事に伴い埋立てられました。
② 小滝
 『江戸土産』に記載があり、 大滝に付設していた小規模な滝とされます。
熊野神社楽殿裏より小池 (下池)にそそぐ滝
 「角筈熊野神社絵図面」に記されている滝です。 熊野神社西側の斜面にあったものと思われます。
④大池のイチョウ脇にあった二つの滝
 古老の話によるもので、 大池の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2本あったとされます。 明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。
⑤十二社にちなんだ十二の滝
 古老の話で、かつては十二の滝が存在したというものです。 そのうちの3つが、 熊野神社甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の俺として残っていたとされます。
熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
熊野神社の南東側には、 明治35年から昭和38年(1902~1963) までこの地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。
この工場のあたりにも滝があったと言われています。



熊野神社文化財
 熊野神社には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。
 このうち、十二社の碑水鉢・七人役者図絵馬 式三春奉納額の4点は、 新宿区指定文化財に指定され、それぞれに説明板を設けてありますが、 この他にもつぎのような文化財があります。
狛犬
本殿裏の末社鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12年(1727) 「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。
きせかちんさん
② 島川玄大人壽北碑
 紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、 紀州藩士川合衛の撰文により、文化4年(1807) に造られたものです。
③ 能勢嘉門賛碑(のせかもんさんひ)
「俺津冷々千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門」
「輝の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも
           那智の佛 山陽堂竹友」
十二社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑です。
④延命陀羅尼二千一百万遍請誦碑(えんめいだらににせんひゃくまんべんどくじゅひ)
 元治元年(1864) に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、 神仏習合の時代を物語を資料です。
⑤絵馬奉納額 (社殿内、 拝観はご遠慮下さい。) 熊野三山絵馬 明和6年(1769) 奉納など



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