『日野本町の本陣跡には、本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物が建っている。日野市は史跡に指定しており、市は耐震補強などのための構造調査と改修を計画している。
その前の、現在は駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた。この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。この向かいに問屋場と高札場があったが、現在は石碑が建つのみである。 』
日野宿 - Wikipedia
日野宿は、甲州道中四五宿のうち江戸から数えて一〇番目の宿場です。宿場には、日野本郷の名主と日野宿問屋役人を兼帯し世襲する、二軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳六年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤」)は本陣を、東側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤」)は脇本陣を務めました。本陣は、公家・大名・旗本や幕府役人専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は一九世紀初頭以降、本陣と同様の機能を担っています。
本陣は建坪一一七坪、脇本陣は建坪一一二坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣などの二軒ともに一〇〇坪を超える例は犬目宿(山梨県)と日野宿だけであったとされます。
嘉永二年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は、元治元年(一八六四)に完成しました。北面中央に式台玄関を備え、屋根は瓦葺であり、一般的な名主屋
敷と異なり、脇本陣としての格式を備えた建物です。
また、本屋敷は新選組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。
東京都内には、江戸時代に五街道を中心に一〇余りの宿場が設置されていましたが、敷地と屋敷が現存しているのはこの脇本陣跡のみです。
日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を勤めていた下佐藤家の住宅として建てられたものである。 下佐藤家は正保年間(一六四四~四八年)頃に名主に取立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に交代で名主を勤めてきたといわれる。また正徳六年(1716年)に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。 現在の建物は嘉永二年(1849年)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久三年(1863年)四月には上棟し、元治元年(1864年)末に完成したものである。
日野宿本陣は瓦葺の建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物の保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に遺る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。
今回は中を見学しなかった。
以前訪れたことがある。
2016/10/13 part2 日野宿本陣 - ovanの社会科見学
以前なかったパネル展示
猪鼻輪業
昭和37 (1962) 年頃 猪鼻洋助氏撮影
店先に並ぶ自転車を見つめる少年たち。 視線の先にはドロップハンドルやセミドロップハンドルの新車が並んでいます。 左隣りは土方パーマ、下佐藤家の冠木門、 電話分室 (旧日野郵便局) と続きます。 いずれも現在は日野宿本陣駐車場になっています。
東京オリンピック聖火リレー 仲町中島寝具店前一
昭和39年(1964) 10月8日 猪鼻洋助氏撮影・所蔵
仲町中島寝具店前をゆく東京オリンピック聖火リレー。 先頭を走るのは米倉三雄青年。その後ろに坂田敏久 (下町)、 島崎敏充 (北原) 青年が続きます。 沿道には万国旗がはられ、走者は胸に日の丸のついたおそろいのユニホームで立川方面へと走ったといいます。 脇の道に止まっている車は日野自動車製の日野コンテッサ。 日野宿発見隊 (日野図書館 584-0467)
下佐藤家表門
明治30年代 佐藤彦五郎新選組資料館所蔵
下佐藤家(現日野宿本陣) の表門 (冠木門) です。 当時の門は甲州街道に面し、 本陣式台の正面に位置していました。 門の左手、格子のある建物あたりが幕末、 天然理心流の道場として使われた剣道場跡の一角です。
奉納賽銭箱 下佐藤家前一
昭和29年(1954)年5月 本所智恵子氏所蔵
江戸消防第九区から奉納される賽銭箱を積んで高幡不動尊へ向かう一行です。 この賽銭箱は、現在も高幡不動尊不動堂前でみることができます。 三角屋根は下佐藤家が運営していた郵便局舎、 隣の冠木門と合わせ、 現在は駐車場となっています。
HPはこちら
日野宿本陣 - 新選組のふるさと日野 - 日野市観光協会
休館日
毎週月曜日、※祝日にあたる日はその翌日、年末年始 (その他臨時休館日があります)
とありますが、行かれる方は事前にHPなどで確認してから行ってくださいネ。
場所はこちら