2024/01/08 武蔵砂川・立川散歩 03 金比羅橋/金比羅山/流泉寺/天恒堂/クリエイトS・D/庶民教育記念之誌

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金比羅

下は高ま側上水。




馬頭観音







金比羅

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2024/01/08 金比羅山 - ovanの社会科見学






◆流泉寺

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2024/01/08 流泉寺 - ovanの社会科見学






◆天恒堂






◆クリエイトS・D 立川砂川店

『子会社クリエイトエス・ディーが、神奈川県を中心に東京都・埼玉県・千葉県・茨城県群馬県静岡県・愛知県に薬局店舗「クリエイトSD」(英語表記では「CREATE SDS」)、ウェルライフが有料老人ホームの運営を展開している。ニチリウグループに属する。そのため食品を中心にニチリウプライベートブランドくらしモア」の商品が陳列されている。 』
クリエイトSDホールディングス - Wikipedia






◆庶民教育記念之誌



 江戸時代(1590~1868)は、幕府が学問を奨励した上に、平和な時代が長く続いたことなどもあって、庶民教育は広く農村にまで普及した。
 阿豆佐味天神社の神官 宮崎常次郎は深く学問を愛し、自分の屋敷内であるこの地 (現在の立川市砂川町四丁目二番地の三 多摩中央信用金庫砂川支店所在地)に寺子屋を開いて近隣の子供たちに手習を教えた。 開いた時期は不明。
 嘉永六年(1853)から文久二年(1862)までの約十年間に、延べ三十四名の子女の記録がある。当時の寺子屋は小規模だった。
 常次郎の孫の鼎(かなえ)は東京に四年間遊学し、村田直景門下で漢学を習得。明治の中頃に家業の傍ら、寺子屋と同じ建物で宮崎塾(私塾)を開き、主に村内の富農な家の子弟に漢学を教授した。
 当期は養蚕業の興隆期であったので、塾は栄えた。大正十四年(1925)に門弟たちによって邸内に建てられた黒の頌徳碑には、三十五名の塾生の名前が刻まれている。
 明治政府が驚くべき早さで日本の近代化に成功した背景には、江戸時代以来庶民教育が果たした役割が大きかったといえる。
 砂川村の庶民教育を行った寺子屋を記念するこの地にこの文を掲げる



google mapには載っていなかった。
赤丸のところが上記写真の場所。






続く。
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