前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/08/180000
◆武蔵村山市立歴史民俗資料館分館
別のページで。
2024/01/08 武蔵村山市立歴史民俗資料館分館 - ovanの社会科見学
◆東京陸軍少年飛行兵学校跡地 石碑
建立の趣旨
ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。
陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充養成により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され、第一期生が入校した。
終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える。
昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。
若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものである。
平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会
東京陸軍少年飛行兵学校跡地
この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。
東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦・整備・通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。
当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が が建 られています。
武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈る ために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、
「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
東京陸軍少年飛行兵学校跡地
この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。
東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空兵養成のため、昭和十二年(1937)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(1938)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(1943) 三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を
改めました。
当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。
武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
続く。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※