2019/11/14 新宿西口イベントコーナー「土木コレクション 2019」

24時間勤務アケで、国分寺で用事を済ませた後、新宿西口イベントコーナーの「土木コレクション2019」へ。




「TOKYO」って、どんなイメージ?

 安全で、便利で、快適。世界最先端の高い生活水準を誇る世界都市だと答える人は多いでしょう。でも昔からそうだったわけではありません。江戸城が明け渡された1868年の5年前、ロンドンでは地下鉄(The Tube)が開業していました。
 明治の文明開化を経て近代国家への仲間入りを目指してから150年。我が国は地震や戦争、災害など、幾度となく迫る苦難に直面してきました。しかし、そのたびに乗り越えてTOKYOは進化してきたのです。 街を便利に楽し
める地下鉄、火災の延焼を防ぐ幅の広い道路、台風から身を守る安全な川や、日本の経済を動かす高速道路や
新幹線一。先人たちの努力の結晶が、今も残っています。
 そんなTOKYOで、1964年以来2度目となるオリンピックが来年2020年に開催されます。 オリンピックの本番前に
ぜひ皆さんに知ってほしいのが、開催を裏で支えるそんな「インフラ」の存在です。


 「インフラ」は皆さんの生活を24時間365日支え続けています。存在が当たり前すぎて、 普段は意識することもほとんどないのではないでしょうか?しかし、異なる時代に造られたインフラが、実は綿密な計画の下でそれぞれが折り重なってTOKYOを機能させています。
 土木コレクションでは、土木界が保有する、普段目にすることができない貴重な映像や写真、図面、歴史資料の数々を毎年、展示·公開しています。 今年の開催では2つのオリンピックを軸に、「イントロ/軌跡」「戦前~戦後/世界都市東京の夜明け」「1964 /東京オリンピック前夜」「その後/TOKY02020に向け」 という4つのゾーンに分けて、社会背景とともにインフラの魅力をお伝えしたいと思っています。
 過去から未来へと脈々と受け継がれてきた土木の蓄積とともに、変貌を遂げてきたTOKYOをぜひ実感してもらえ
れば幸いです。




気になった展示パネルをご紹介。
こういうパネルがたくさん展示してあったので、ものすごい情報量だった。


地下鉄銀座線

東京を今も支える東洋最古の地下鉄
大正末期から昭和初期にかけで造られた東洋最古の地下鉄銀座線、「她下鉄の創始者」早川德次の手による銀座線は、暗和2 (1927) 年にまず浅草~上野間が開業し、その後昭和9(1934)年までに浅草~新橋間の80kmが期通した、さらに昭和13(999)~14(1989)年に渋谷~新橋間を開業したことで全線がつまが心現在の形とまった。

技術陣にはべルリン地下鉄を手がけたR、ブリスケを技術顧問に迎え、鉄道省からは秋田、富山、敦賀、米子工事事務所長などを歴任した鉄道建設に経験豊富な遠武勇熊を技術長に、また秋田事務所長の愛甲勇吉き建設課長に紹聘した、彼等の下に現場主任として小田秀吉等11名(竣工時には23名) のチームが編成され、大正14(1905)年9月27日の起工式とともにエ事を開始した、地盤が弱い東京では地下鉄工事は困難と言われる中、請外国の例を参考にしながらそのはとんどを開削工事で行った。変更処理が多いことを見越して設計図面は19枚しか用意せず、詳細図は工事中に追いかけて作図したといわれる。

線產線の特徴のーつに、国内初のH型鋼を使用したラーメン式の鉄鋼框(かまち)構造が上げられる。その姿は現在も銀座駅や浅草駅の鉄柱から確認できる。また、工事当初から資金不足に悩まされたが、施工会社が一時立で替えたり、浴線の百貨店から出資してもらう等、様々な協力を得ながら完成に至った。しかし、黄金不足でありまがもも、将来の需要を見越して歓の延長を当時の車両編成よりも長く設計し、良質のコンクリートを打設するなど、長期的視点に立った都市づくりへの強い意志がうかがえる。

停車場については、既に沿線には多くの百貨店が存在していたことから、計画の時点で百貨店との直接連絡を考慮している。また地上の出入口については、諸外国が手すりや表示のみの簡易なものであるのに対して、降雨が多い日本の気候や乗降客の服装などを考慮して上屋を設置することを決めた。その思想は現代にも引き継がれている。



駒沢給水塔

地元住民から親しまれ続ける双子の塔
東急田園都市線桜新町駅を降り、駅前から北東方向に延びる住宅地の細い路地を進むと、 突然目の前にふたつの塔が現れる。増搭の頂部には半球形のドームが置かれ、ピラスター (柱型)や飾り縁で装飾されたコンクリートの外壁の最上部には装飾電球が並ぶという、 まるで王冠のような建物。これが、 豊多摩郡渋谷町 (現在の渋谷区の一部)に飲料水を供給するために建設された、 駒沢給水所の給水塔である。

明治前期の渋谷は、 まだ田園風景の広がる村であった。しかし、明治40(1907)年に現在の東急田園都市線にあたる玉川電車が開通し、 明治44 (1911)年には市電が山手線と結ばれたこともあって、明治末期の渋谷は都市へと変貌する。その後も市街地は拡大し続け、 渋谷町は大正9(1920)年に人口8万人を抱える、 東京府下町村のなかで最大のまちとなった。この人口の増加に伴って大きな問題となったのが飲料水の確保であり、大正6(1917) 年に渋谷町は単独での水道事業を営むことを決定する。

この渋谷町水道事業の顧問を依頼されたのが、 当時すでに国内外で40を超える水道事業を手掛け、後に日本の近代上水道の父と呼ばれる中島鋭治博士 (東京大学名誉教授)であった。中島は同年より実地調査をおこない、取水地を多摩川河畔の砧村 (現在の世田谷区鎌田)とし、そこから付近で最も標高の高い荏原郡駒滞村字新町(現在の世田谷区弦巻)までポンプのカで水を押し上げ、この地に設けた給水場から渋谷町まで自然流下させるという計画を取りまとめる。 給水人口20万人、1日1人当たりの給水量139リットルという町営水道としては別格の規模を持つ計画であった。

工事は大正10(1921) 年に着工し、わずか3年後の大正12(1923)年5月には渋谷町への給水を開始した。 給水塔自体の竣工は、2号塔が大正12 (1923)年3月、 1号塔は関東大震災の2か月後の大正12(1923)年11月である。給水塔の意匠は先に述べたようなエ夫の凝らされたものとなっており、ここからも本水道施設に対する意気込みを推察することができる。 その後、昭和7 (1932) 年10月に周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い町営水道としての役割は終えたものの、東京市水道局の管理のもと、駒沢給水所の給水機能は平成11 (1999)年まで実に76年間にわたって維持された。

戦後の水道技術革新にともない大正·昭和初期の水道施設が建て替えられていくなか、 当時の姿を残す駒沢給水塔やその関連施設群は日本における近代水道の歴史を示す貴重な近代化遺産だといえる、そして、 なにより豊かな緑の樹林の中に誓え立つ優れたデザインの双塔のおかげであろう、 それを愛する地元の方たちによって駒沢給水塔風景資産保存会 (コマQ)が平成14(2002) 年に立ち上がり、以来10年以上にわたってさまざまな保存啓蒙活動を続けている。 その活動が実を結び、平成24(2012)年に東京都水道局は駒沢給水塔を残すことを決定し、同年に公益社団法人土木学会選奨土木遺産の認定を受けた。これからも、この双子の塔が地域を見守り続けることを心から願う。




聖橋

我が国を代表する美しいコンクリートアーチ橋
聖橋は、御茶ノ水神田川とJRを跨ぐ鉄筋コンクリートアーチ橋である。神田川の谷に虹を描くように架けられたアーチ橋は、力強さと美しさを併せ持った名橋として、今日の東京を代表する景観の一つになっている。

この橋は、関東大震災の復興橋梁として、 昭和2 (1927)年に国の機関であった復興局により建設された。橋長72.9mうちアーチ部の長さは36.3mで、当時国内では最大級の鉄筋コンクリートアーチ橋であった。

我が国でコンクリートアーチ橋が建設されるようになったのは明治末頃といわれ、大正時代になると東京でも
鍛冶橋(撤去)や昌平橋(現存)などが建設されるようになった。これらの橋は、アーチの側面(スパンドレル)に外壁を設け、中にコンクリートや土を充填した充腹アーチという構造で、外壁には、コンクリートむき出しでは美観を損ねるとの理由から、 石やレンガを貼り石橋やレンガ橋に模したデザインとすることが主流であった。

これに対し、聖橋はアーチ側面を壁で塞ぐことなく、アーチの上に立てた柱により桁を支える開腹アーチと呼ばれる構造で、側面は打ちっぱなしのコンクリートで、 石やレンガは貼られていなかった。これらは、いずれも現在のアーチ橋に共通するもので、聖橋がその後のコンクリートアーチ橋の発展に、 多大な影響を与えたことは想像に難くない。

聖橋の設計者は、復興局の土木エンジニアの成瀬勝武であった。成瀬は、東京帝国大学を卒業後東京電力の前身の1つである猪苗代水力電気会社を経て、大正 12 (1923) 年、27歳で復興局へ入った。復興局で江戸橋、難橋、鎌倉橋など多くの橋梁の設計に携わった後、復興局の廃止に伴い昭和5 (1930)年に日本大学土木工学科の設立に参加し、その後、昭和42 (1967)年まで教授を勤めた。大学教授時代も東京市嘱託として勝開橋設計の指導にあたったほか、小河内ダム建設では中山橋や深山橋などの設計も行うなど、 昭和を代表する橋梁エンジニアとなった。

また、復興局では、土木エンジニアに加え、主に橋の親柱や高欄などをデザインする目的で若手の建築家を集めた。その中に、聖橋のデザインに携わった山田守がいた。 山田は、東京帝国大学卒業後通信省を経て、大正13 (1924)年に 30歳で復興局へ入った。彼は、通信省時代、我が国の表現主義建築の代表作と評される東京中央電信局を設計した。この建築は、外観に表現主義の特徴の1つである先の尖った尖塔型アーチを多用したもので、聖橋にも同様にアーチ側面に尖塔型アーチが用いられた。山田はその後、復興局の廃止に伴い逓信省へ戻ったが、戦後は建築事務所を設立し、そこでは日本武道館京都タワーなど、様式に囚われない自由な作風の作品を発表し、昭和を代表する建築家となった。

このように、聖橋は、やがて土木と建築の分野でそれぞれ大家となる、2人の新進気鋭のエンジニアのコラボレーションによって産み出された橋であった。

時代を経ても色あせないこの美しい姿を、次世代へつなげていきたいものである。




電車案内図

昭和39年の都電路線図だそうだ。
僕が生まれる10年前はたくさん都電があったんだねぇ。。。





新木場駅

僕が毎日使っている駅。
この工事のおかげで行きつけの「湾岸そば」がなくなってしまった・・・・。
早く工事が終わってくれないかなあ。




全部は撮ってないけど他の展示パネルの写真はコチラ↓
20191114 土木コレク - ovanrei's fotolife


毎年のように来ているが、インフラ好きにはたまらない展示だ。
また来年も来るぞ!!