2021/05/26 雑司が谷散歩 03 南坂/雑司が谷弦巻通り商友会/高砂湯/目白台二丁目歩道橋/日本女子大学/幽霊坂/豊坂

ここでは細い路地を南へ。
幽霊坂手前の広い道は不忍通り
幽霊坂を下ったところにある広い通りは目白通り




◆南坂

坂上
説明板などは見当たらなかった。



坂下。








雑司が谷弦巻通り商友会

商店街♪










高砂

銭湯♪









目白台二丁目歩道橋

下は不忍通り










日本女子大学

以前お邪魔したことがある。
2019/01/29 02 日本女子大「成瀬記念館」/稲荷社/新宿「ハイチ」 - ovanの社会科見学








幽霊坂

坂上
説明板などは見当たらなかった。



坂下。








◆豊坂

坂上
こちらは来たことがある。
このあたりは文京区なんだね・・・・。
2018/08/21 江戸川橋散歩 05 高田第二公園/豊川稲荷/東京音楽大学目白台グラウンド/豊坂/高田豊川町/豊川浴泉/豊川稲荷 - ovanの社会科見学










続く。

2021/05/26 雑司が谷散歩 02 南池袋第二公園/地蔵尊/都電荒川線踏み切り/大鳥神社/清立院/寶城寺/御嶽坂

細い路地を南西へ歩く。
だんだん高低差が・・・・。




◆南池袋第二公園








地蔵尊



後ろはお墓なんだが、情報が見当たらない・・・。








都電荒川線踏み切り

踏切名見逃しちゃった・・・。











大鳥神社

こちらは以前訪れたことがあるので、今回はお参りだけ。
2018/08/28 鬼子母神散歩 04 本納寺/大鳥神社/まちづくり井戸七曲りの水/手塚治虫旧下宿先/鬼子母神前/鬼子母神表参道/稲荷神社 - ovanの社会科見学









◆清立院



清立院毘沙門天
約770年前から皮膚病・雨乞いの祈願寺として崇敬されてきました。
甲冑をつけ槍を持った姿は昔から武将たちに愛されたインドの戦勝の神様ですが、左手の宝塔は人々へ福徳を与える優しさを持ち合わせています。
また、区指定文化財でもあります。


十一面間世音


疱守薬王菩薩


雨乞の松


山門


白鳥稲荷大明神

こちらは門前にあった。


石橋記念供養塔

こちらも門前。








◆寶城寺









◆御嶽坂

坂下。
説明板などは見当たらなかった。
清立院門前の坂








続く。

2021/05/26 雑司が谷散歩 01 東池袋駅/日出町公園/早稲田19号踏み切り/御鷹方御組屋敷道/雑司ヶ谷霊園/香教寺/早稲田22号踏み切り

24時間勤務アケで、東京メトロ東池袋駅から同じく雑司が谷駅まで散歩。



最初に年間パスを持っているサンシャイン水族館へ。
なんとお休み!!
今まで緊急事態宣言下でもやっていたからチェックしなかったんだけど、今回の場合はずっと休業していたみたいだね・・・・。

失意のまま次の予定の雑司ヶ谷霊園へ向かう。
霊園の後は今までの散歩で残ってしまった場所を散策。



東池袋駅










◆日出町公園


オブジェ

説明がなかった。
ご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>

WEBで調べると「断層ーIN」という名前らしい。
参考
『ビルの谷間の公園です』by ぷーちゃん|日出町公園のクチコミ【フォートラベル】








◆早稲田19号踏み切り











◆御鷹方御組屋敷道

雑司ヶ谷霊園前の道だった。



この道は明和九(1772)年『武蔵国豊島郡雑司谷村絵図』によれば
御鷹方御組屋敷道(おたかがたおくみやしきどう)
と記されており霊園西側約九千坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩 のための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことと、その北方約四百メートルに鷹匠 や同心 などの住まう約一万五千坪の組屋敷 があったことに由来する










雑司ヶ谷霊園

情報量が多いので1ページにした。
別ページになります。








◆香教寺

中へは入れなかったので外からお参り。









◆早稲田22号踏み切り












続く。

2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 10 泪橋交差点/東盛公園/下町人間庶民文化館/三ノ輪歩道橋/三ノ輪駅

明治通りを東へ進んで東京メトロ日比谷線三ノ輪駅でゴール。




泪橋交差点



泪橋(なみだばし)は東京都にあった橋の名称である。荒川区と品川区に一ヶ所ずつの計二ヶ所あった。いずれも近隣の刑場に深い関連があるとされる。荒川区南千住にある小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋。現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はなく、その名前は交差点やバスの停留所に付けられる事で残っている。』
泪橋 - Wikipedia


近くにあった地図








◆東盛公園








◆下町人間庶民文化館

こちらは前も素通りした。
やっぱり一人では入りづらい・・・。
2019/10/30 02 三ノ輪橋・浅草散歩 01 三ノ輪橋駅/第二三ノ輪架道橋/三ノ輪駅/下町人間庶民文化館/有馬湯/吉原公園/お歯黒どぶの石垣跡 - ovanの社会科見学

WEBで調べるとどうやら書店らしい。
詳しい方がご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
ぺこ <(_ _)>







◆三ノ輪歩道橋


[f:id:ovanrei:20210521211847j:plain








三ノ輪駅

ゴールの三ノ輪駅







鐘ヶ淵、南千住から歩くって手段があるね。
中央線、京葉線を普段使ってるので、東武伊勢崎線を使うのは何度も乗り換えをしなければならなく、値段もものすごく高い。
南千住から歩くと八丁堀からの往復だけで済んだ。
散歩は高低差が無いうえに、トイレがあちこちにあって歩きやすかった。
膝はそんなに痛くなくなってきた。
よかったよかった。

2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 09 石浜神社

情報量が多いので1ページで。



前に一度来たのだが、写真を撮り忘れたので再訪。
2021/05/09 台東区橋場散歩 02 瑞光橋/真崎先銭座跡/石浜神社/石浜城址公園/白髭橋/明治天皇行幸對鴎荘遺蹟 - ovanの社会科見学







◆石浜城址(石浜神社)

 石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573~1591)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
 石浜神社は、聖武天皇の時代·神亀元年(724)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・字都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の萩(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838)刊行の『東都歳事記』の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。






◆真先稲荷と田楽茶屋

 真先(崎)稲荷は、天文年間(1532~1554)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、大願の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。
 江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。






◆真先神社






江戸神社/北野天満宮/妙義・八幡神社/寿老人






◆招来稲荷神社






◆白狐神






富士塚



 石浜神社は、古来、富士眺望の名所として名高い。江戸時代に富士塚 が築かれたが、近代の開発による境内移転で移動し、その姿を変えた。現存の富士塚は、昭和六十三年(1988)の墨田川スーパー堤防建設の際に新造されたもの。富士塚及び周辺には、浅草・橋場付近の瓦職人の富士講 が奉納したと推定される宝暦八年(1758)銘の標柱、安永四年(1775)銘の手水鉢、年未詳の奉納石が置かれている。標柱は、宝暦八年に遥拝所として富士塚が築造された可能性を伝え、江戸で初めて造られた富士塚といわれる安永八年造立の高田富士(新宿区)よりも古い事例であることを示唆する。奉納石は、自然石の富士山形の石を用いたと思われる。江戸の富士信仰を研究する上で学術的に価値が高く、地域の民間信仰の歴史を伝える大変貴重な資料である。






◆神楽獅子






◆神輿庫






◆神楽殿






◆麁香神社関係資料

 麁香神社は石浜神社の摂社で、本殿西の中庭内にある。祭神は手置帆負命彦狭知命。この二神は工匠守護の祖神で、江戸時代には建築関係者の信仰を広く集めた。ここに立つ天保五年(1834)銘の麁香神社建立の碑、安政四年(1857)銘の日本大工祖神の碑は、幕府御用職大工方・屋根方等の工匠が建てたものである。このほか、安永三年(1774)銘の由来を記した板、安政(1854~1860)の銘の扁額がある。


亀田鵬斎の詩碑

 亀田鵬斎(1752~1826)は、隅田川沿岸に多くの詩碑を残した。この碑は、文政七年(1824)に建立されたもので、前面に隅田渡津の歴史を詠んだ鵬斎の七言律詩2首と、稲垣成斎による建碑の由来が刻まれている。鵬斎は詩文・書にもすぐれた儒学者であったが、寛政異学の禁で異端の筆頭とされた。晩年、金杉で暮らし「金杉の酔先生」と呼ばれ親しまれたという。





◆鳥居1



 寛延二年(1749)八月哉生明(陰暦三日)の建立。主石材は花崗岩。建立者は石浜在住と推定される水埜則祐。銘の撰者は儒者の鳴鳳郷(成島錦江)。石工は小出氏。橋場町名主を含む商人等五十七人が寄進した。笠木の小口がカマボコ型で、柱の傾斜が大きいという特徴を持ち、同形式の安永八年(1779)銘の一の鳥居等とともに神明鳥居系の石浜鳥居と呼ばれる。江戸の歴史、文化、信仰を知る上で、また鳥居研究において大変貴重である。






◆鳥居2



 安永8年(1779)に、幕府御用呉服商の茶屋(中島)四郎 次郎延貞が建立。石浜神社中興の神主であった鈴木智庸の代のものです。銘の撰文と書は、国学者歌人の能書家の三島景雄(自寛)。笠木の小口が蒲鉾形をなし、柱の傾きに も特徴があり、この形式の鳥居は、神明系の「石浜鳥居」と呼ばれています。






続く。

2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 08 東白髭公園/京成白髭駅跡/八百七/下の道説明板/セイコーミュージアム跡/白髭橋

東白髭公園の南端へ到達。
墨堤通りに出たところ周辺を散策後、白髭橋を渡って隅田川の西側へ。



◆東白髭公園











◆京成白髭駅跡



google mapのマークは上の写真の所辺り。


『白鬚線(しらひげせん)は、かつて東京府東京市向島区(現:東京都墨田区)の向島駅から白鬚駅までを結んでいた京成電気軌道(後の京成電鉄)の鉄道路線廃線)である。 』
京成白鬚線 - Wikipedia

京成電車疑獄事件(けいせいでんしゃぎごくじけん)とは、京成電気軌道の浅草乗り入れにおける東武鉄道との競願を巡って、1928年(昭和3年)9月26日に起きた汚職事件である。』
京成電車疑獄事件 - Wikipedia


隅田川を渡る路線を画策していたんだね。
で、汚職事件まで起こしてしまうとは・・・・・。









◆八百七

元気な八百屋さんだねー。










◆下の道説明板



下(しも)の道
 承和2年(835) の太政官符に 「武蔵国下総両国堺、住田河四鞭・・・」の記載がみられます。住田渡 (隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、 大正3年(1914)の架橋頃まで、 永々と続
く隅田渡がありました。 古代東海道の官道であり、 鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。
 この墨田堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。 源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また奥州征伐にも使用された道とも考えられます(吾妻鏡)。
 さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北傑軍の使用路でもあり、 郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。










セイコーミュージアム

銀座に引っ越す前は、こちらにありました。
以前細君と来たことがある。
2015/07/22 セイコーミュージアム - ovanの社会科見学

銀座へ引っ越し後も訪問。
2020/11/14 セイコーミュージアム - ovanの社会科見学









◆白髭橋

下は墨田川。














続く。

2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 07 東白髭公園/隅田川神社/木母寺/隅田ポンプ所/近代映画スタジオ発祥の地/白髭橋親水テラス

東白髭公園周辺を今度は南へ進んでいく。



◆東白髭公園

また、東白髭公園へ入る。



この現在地と書かれたところから上(西)へ向かって進む。


纏(まとい)

 


 纏(まとい)。それは、江戸時代において、火事といえば即、纏といわれ、纏のもとに総力を結集して、消火活動を行い纏が火を消したとまで言われていました。
 この公園は、大震火災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。
 その安全をあらわすシンボルとして、ここに纏のモニュメントを建造しました。


東白髭公園サービスセンター


葛飾北斎

 雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。


隅田宿跡

 当地は、古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
 隅田宿は、治承四年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
 また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
 対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
 なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。









隅田川神社


水神の森跡

 荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
 昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
 水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
 その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。


三才稲荷神社/若宮八幡神社


粟島社/金神社/天神社


小祠/石亀像

左の小祠は何が祀られているのかわからなかった。
石亀塚には亀の像が祀られていた。
さらにその右に小さい祠がある。


石亀像のみの写真

上記の石亀像だけ写真を撮った。


力石


先客


楽殿


鳥居1


鳥居2









◆木母寺



木毋寺由绪浴革
 当寺は平安時代中期の貞元元年(976) 天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
 文治五年(1189)鎌倉時代源頼朝が奧州遠征の途中に参拝し、長禄三年(1459)室町時代太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。
 天正十八年(1590)安土桃山時代徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳にちなみ「梅柳山」の山号が与元られます。
 慶長十二年(1607) 江户時代に前関白,近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。
 寛永年間、三代将軍,德川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が作られました。
 明治元年(1868)神仏分離令に伴う廃物毀釈のあおりを受け梅若神社となりましたが、明治二十二年(1889)に寺院への復帰を果たします。
 昭和二十年(1945)に米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(1976)都市再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。

梅若塚
 境内にある梅若塚は能,歌舞伎,謡曲,浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。当寺に現存する寺宝絵卷物「梅若権現御緣起」(上中下の三卷から成り、高崎城主:安藤対馬守重治が延宝七年(1679)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。

梅若権現御縁起
 平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。
 二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。
 梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。
 梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子共でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢いかと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜へと逃れました。
 そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で
       尋ね来て 問はば応へよ 都鳥
             隅田川原の露と消へぬと
と句を残し十二歳という若きで命を落としてしまいました。
 そこに通りかかった天台宗の僧である忠円阿閣梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。
 梅若丸が亡くなったあくる年、母は失除した息子を探し狂女となって東国へと向かいます。
 そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守より梅若丸の死を聞きました。
 大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。
 母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡ヶ池に身をなげてしまいます。
 すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。忠円阿闇梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として紀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

隅田川
 謡曲隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲きれました。梅若丸と狂女となった母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「層田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。
 この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行なったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の
信仰を集めています。



木母寺境内之図『新選東京名所図会·隅田堤』
山本松谷画 木母寺蔵
木母寺境内之図は明治三十一年(1898)、梅若塚の再興から十年を経た風景です。春昼、俄か雨の中、傘をすぼめて足早に行く婦人を近景として絵の中央に梅若堂、右手に本堂、左奥に料亭、植半が描かれています。この絵の中の世界は昭和二十年四月の戦災をもって過去のものとなりました。そして、画中御堂(梅若堂)だけが、身に多くの爆弾弾片の傷跡を残しながら、時の証人として生き続けています。

木母寺の変遷
江戸時代、当寺では梅若忌(梅若丸を供養する大念仏の行事)や開帳がおこなわれ、多くの参拝者を集めていました。 また、幕府から寺領二十五石を与えられ歴代将軍将軍世子・公家・大名・文人など当代の貴顕とともに、一般庶民も多く訪れる隅田川遊覧の代表的な名所でした。時代が江戸時代から明治時代にかわると、廃仏毀釈により明治元年(1868) に廃寺し、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創建されました。徳川家の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、多くの地域住民と政財界の有力者および文化人たちの支援を受け、明治二十二年(1889)に寺院への復帰を果たします。神社を再び仏寺にすることは、当時としては非常に困難な事業であり、当寺では、これを明治中興と称しています。その後も、昭和二十年(1945)四月十三日に米軍の空襲を受けて本堂・庫裏を焼失。さらに同月十五日に爆撃を受け、梅若堂や境内の石碑が大きな被害を被りました。昭和二十五年(1950)に仮本堂を建立し、二十七年(1952)に梅若忌が再開され今日に至ります。


謡曲隅田川」と木母寺

 謡曲隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。
 梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房卿の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子五才で父を失い、七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日此の地にみまかる。時に十二才、いまわの際の「尋ね来て問わば応えよ都鳥隅田川原の露と消えぬと」との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(1607)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。


境内の諸碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲隅田川」の碑など、三○基の石碑があり、
 著名なものとしては次の諸碑があります。
◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。
◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。
◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。
◆題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。  文政十二年建立。


三遊塚



 初代円生(1765~1838)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して、三遊亭円朝が明治二十二年(1889)に建立されました。題字は「幕末の三舟」といわれた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。



身代り地蔵尊



「身代り地蔵尊」の由緒
 この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかり深いお地蔵様です。
 そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み、苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
 つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。


梅若堂



 この仏堂は明治の廃仏で一時、梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治二十二年の建立になります。
 当寺一帯が全焼した昭和二十年四月の繊細にも焼失をまぬかれた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡が所々に見られます。
 防災拠点内であるため木造建造物の在地は許可されず、覆堂内に納められることになりました。


梅若塚



「たづね来て 問わばこたえよ 都鳥 すみだ河原の 露ときえぬと」
の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。


天下之糸平の碑



 幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」ち呼ばれました。
 表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。
 高さ5.2m、幅3m、重量80tある都内第一の石碑です。


山門









◆隅田ポンプ所









◆近代映画スタジオ発祥の地



 明治34年(1901年)フランスからシネマトグラフが輸入され、日本で映画の興行や製作が始まりました。ところが外国映画の質の高さに刺激され、本格的な劇映画の発展を目指そうと、明治44年(1911年)にエム・パテー商会、梅屋庄吉の提案で、吉沢商店 河浦謙一、横田商会 横田永之介、福宝堂 田畑健造など4社の合同で日本活動写真フィルム株式会社(日活)が設立され、大正2年(1913年)10月ここ隅田川畔の杉山茂丸氏の別荘地7500֥㎡に、向島撮影所が開設されました。川岸に広さ約900㎡の、天候に左右されずに撮影ができる、東洋一のグラスステージが建てられて、日本映画の質を飛躍的に向上させることができました。初期の作品であるカチューシャは大ヒットし「向島作品」の名を高めました。当時は女性の役は女形によって演じられ、カチューシャを演じた立花貞二郎や、後に監督になった衣笠貞之助女形でした。やがて女優が採用され、酒井米子が向島撮影所最初の女優となりました。ここは本格的な日本劇映画の発祥の地です。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、惜しくも向島撮影所は閉鎖されました。この間、およそ760本の作品が作られました。









◆白髭橋親水テラス



鯉のぼり♪









続く。