2017/11/04 江古田散歩 04 蓮華寺/下田橋/北野神社/天神橋/江古田古戦場跡

先程のエリアから東に向かって歩く。
哲学堂の周りはたくさん


蓮華寺





神社

中に諏訪大明神と書かれた提灯があった。



そういえば、お寺の境内にある神社の神主さんってお寺の住職と兼任になるのかな??



井上円了墓所






 ここは、哲学堂を創った井上円了墓所です。
 円了は、安政五年(1858)現在の新潟県三島郡越路町に生まれ、哲学者であり、また教育者として、明治の中頃から大正にかけて多彩な活動をくりひろげました。
 とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈にもとづいた既成仏教の革新、キリスト教の批判や迷信打破の運動は、我が国の文化史上特筆されるものといわれています。
 また、哲学館(後の東洋大学)と哲学堂を創立したのは、円了が提唱する「護国愛理」をもとに学校教育と社会教育の振興はか図るためでした。こうして、国民道徳の普及と向上「考える人」の養成をめざし国家への報恩を願ったといわれています。






◆下田橋










◆北野神社


稲荷神社


市杵嶋(いちきしま)神社 弁財天


北野神社のおびしゃ

 この神社は、長い間天満宮ともよばれ、新編武蔵風土記稿 にもみえています。
 この神社では、昔から「おびしゃ」(御歩射・備射)の神事が行われてきましたが、いまではそれも行われなくなって、伝統を語る古老も少なくなってしまいました。
 「おびしゃ」の神事は、関東地方東部で行われる春の農村行事で、弓で的を射て、その年の農作物の豊凶を占うものですが、いつ頃からか、神と人の直会(なおらい)の宴のような色合いが濃くなり大正頃には、日光の強飯式(ごうはんしき)に似た行事に変ってしまったそうです。
 この神事は、二月の初午の日と秋の例祭の二回行われ、当初は、当番と両隣りの家が本膳を用意し、おとなたちは祝いのうたを歌い、こどもたちは豊年祈願の文章を読むのが恒例になっていました。






◆天神橋








◆江古田古戦場跡



このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(1477)太田道灌 と豊島泰経 らが激戦をしたところです。
 ここでの合戦は、享徳の乱(1454−1482)という長期にわたる内乱の中の戦いでした。
 享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏 と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠 が殺害されたことがもとで起きました。
 この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。
 ここでの合戦は、武蔵野の開発を行ってきた豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。



続く。