2021/10/22 大手町散歩 竹橋/将門塚/東京駅

24時間勤務アケで、恒例の大手町散歩。



◆竹橋









◆将門塚

以前来たことがある。
だいぶ様子が変わっているね・・・・。
2017/08/27 01 大手町散歩 02 大手門/市内最初の並木/江戸城此/将門塚 - ovanの社会科見学



 神田明神のご祭神である東国の英雄·平将門公の御首をお記りじております。平将門公は、承平天慶年間 (931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。
 今を去ること1075年ほどの昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平貞
盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といるいます。
 その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が崇をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀俄という法号を追贈し塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ犯ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。
 天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪
水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多
くの伝説と将門公を肥る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷士の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する峰火であったと共に、弱きを助け強き
を挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。
 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動伊達安芸原田甲斐の殺害された場所でした。明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどし
ましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三六年(1951)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て、令和三年(2021)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。
 将門塚は神田明神·創建の地でもあります。毎年九月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輩神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存
会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。

ってことは今年整備したってことなんだね。











◆東京駅