2018/12/07 早稲田散歩 02 天祖神社/早稲田駅/落馬地蔵尊/龍善寺/地蔵/宗参寺

この日記のエリアは先程のだいたい南東側のエリア。
漱石山房を目指す。


天祖神社


天祖神社の由来

 天祖とは「アマツミオヤ」とも読み、極めて尊い神のことで、天皇の遠祖です。
 当神社の創建年代は詳らかではありませんが、天和二年(1682年)今の榎町から現在の地に遷座されたものと伝えられる。
当時はこの地一面茗荷畑であったため、茗荷畑の神明宮と言われて住民から崇敬されていました。江戸時代には神明宮、神明神社と称していましたが、明治時代になり天祖神社と改められ、無格社として赤城神社の付属社となっていましたが、昭和二十七年(1952年)宗教法人法により、宗教法人「天祖神社」となりました。
 社殿等は昭和二十年(1945年)五月二十五日の戦災によりことごとく焼失しましたが、焼失前の社殿は、神門が東に面し、瓦葺四趾、前柱各六角柱、欄間に二見が浦の景色を金彫され、柱の両側に左甚五郎の作と言われた雌雄の鶏の彫刻がありました。
 昭和四十一年(1966年)崇敬者等の御奉仕により、本殿の再建を見たる後、社務所、拝殿、手水舎等次々に復興し現在に至っています。



変わった塚


鳥居



早稲田駅

東京メトロ東西線早稲田駅
そういえばこの出口は使ったことがないなあ・・・。



◆落馬地蔵尊



 口碑によると、江戸幕府三代将軍 徳川家光 公が遠乗りに出てこの地を通過のみぎり 突然乗馬が驚奔し落馬された 怪しんでその地を探させると 土橋の下より この地蔵が出現 公いたく畏怖して祀ったと謂う
 降って寛永十三年(1636年)高田馬場開設に伴い 旗本、諸大名などの馬術 の鍛錬のため 江戸城〜馬込見付〜落馬地蔵〜穴八幡〜高田の馬場の道順にあたり 馬術武芸の上達・安全を祈念するもの多く その尊崇を集めていたという
 寛延四年(1751年)「再訂増補江戸惣鹿子名所大全」の中に落馬地蔵 わせだ大養寺が古く「再訂江戸砂子」明和九年(1772年)訂正に 高田 落馬地蔵 石仏也 浄土智恩末光明山大養寺と 地蔵の記述あり
 戦災により 焼失せるも再建され 早稲田通りの歩道に面して立ち あわただしく行きかう車を眺め、馬蹄の響きとともに 遠く去って帰らぬ馬を その半眼に回想されているかのようである
 両脇には また似通ったお地蔵さんが 侍座しておられる




◆龍善寺





 寄木(よせぎ)造り、漆箔(しっぱく)仕上げ。像高九五・一センチ。十二世紀末(鎌倉時代初期)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 龍善寺は寛文七年(1667)に現在地に移ったが、この像は当時からの本尊である。頭部の螺髪(らはつ)は細かく刻まれ、表情には上品さが漂っている。体は丸く弧を描くようななだらかな肩をもち、穏やかな表情や腰の高い胴体を相まって優美さが感じられる。全身を包む衣は極めて浅く刻まれ、腹部から股間に沿って流麗な衣文線(えもんせん)が施されている。
 いわゆる定朝様(じょうちょうよう)(平安時代の仏師)の優品である。
 このほか龍善寺には、三河上宮寺の旧本尊であった聖徳太子像の胎内にあった、像高三〇センチ程の聖徳太子像も安置されている。



◆地蔵

google mapに載っていたので来てみたが、どこにも見当たらなかった・・・・。




◆宗参寺

お葬式の最中だったので門前からお参りした。


山鹿素行墓/牛込氏墓

山鹿素行墓>
 山鹿素行は江戸時代前期の儒学者兵学者で、素行は号である。元和八年(1622)に会津 に生まれ、江戸へ出て九歳で林羅山儒学、十五歳で小幡景憲北条氏長兵学を学んだ。承 応元年(1652)、三十一歳のとき、赤穂藩主浅野長直に仕えて家禄千石を賜わった。その間、当時の官学であった朱子学の抽象性を批判し、古代の聖賢の教えにかえることを主張し、また古学を唱えて家塾をおこし、多くの門弟をそだてた。明暦二年(1656)に「武教要録」などの三部作を著わし実学を重視する考えを主張した。寛文五年(1665)には、かれの語録「山鹿語類」が集大成された。また「聖教要録」で、朱子学を批判したため、翌年、赤穂藩へ流された。晩年には許されて江戸に帰り、積徳望を開き、儒学兵学を教えたが、貞享一一年(1685)六十四歳で没した。著書が多く、「山鹿素行全集」にまとめられている。

<牛込氏墓>
曹洞宗・宗参寺は、天文十二年(1543) に没した牛込垂行(法号、宗参)の廟所として、 その子勝行が創建した寺である。牛込氏はもと大胡姓を名のり、上野国赤城山南麓(現在の群馬県勢多郡大胡町)の領主であった。武蔵国守護の上杉氏の家臣であったが、大永四年(1524)に北条氏綱江戸城を攻略させたときから、小田原北条氏の家臣となって、牛込地域の領主になった。牛込城(袋町、光照寺付近)にいて、北条氏の江戸衆の主要メンバーであった。領地は牛込郷ほか四ヵ村で、一七七貫余であった。重行-勝行-勝重と北条氏に仕え、天正十八年(1590)の北条氏の滅亡により江戸に入城した徳川家康にしたがい、のち旗本となって、幕末に至った。宗参寺の牛込氏墓地には、寛文四年(1664)に、勝正が、先祖である重行と勝行とを供養して建てた供養塔を中心に、歴代の墓がある。






続く。