2023/02/19 米津寺


『慶長8年(1603年)、徳川家康の江戸入府に伴い、三河の家臣団が江戸に移住してきた。その中に米津(よねきつ)氏がいた。米津氏は寛文6年(1666年)以降、一万石余の大名に昇格しており、小さな大名とはいえ東久留米市域とは深いつながりを持っていた。米津寺は、萬治2年(1659年)、開山を大愚(だいぐ)和尚、開基を二代目・米津田盛(たもり)とし、米津家の菩提寺として建立された、禅宗臨済派京都妙心寺の末寺である。この寺は米津家一氏のみが檀家となった寺であり、米津家初代・田政(たまさ)の子、二代目・田盛(たもり)、四代目・政矩(まさのり)、六代目・政崇(まさたか)、八代目・政懿(まさよし)の墓地がある。
後北条の流れを汲む浄牧院(大門町1丁目)に対して、徳川幕府から知行地を与えられた米津家は、監視の役割を担っていたという歴史的評価も生まれている。田政があるとき浄牧院に駕籠で乗りつけたとき住職が烈火のごとく怒り田政を門外に追い返したという伝説がある。
明治22年(1889年)の火災により楼門以外の全てを焼失、残された楼門は1895年に武蔵国分寺に移設され、国分寺市の重要有形文化財となっている。後年に一般の檀家を迎えることとなり、境内の整備も進んでいる。 』
米津寺 - Wikipedia




◆久喜藩主・長瀞藩主米津家墓所




 圓通山米津寺(旧多摩郡前沢村)は、万治二年(1659)米津出羽守田盛を開基とする臨済宗妙心寺派の寺院であり米津家の菩提寺である。本堂左手奥の墓域に、二代田盛・四代政矩・六代政崇・八代政容の墓標と供養塔や石燈
籠などが並んでいる。墓標の形状は笠付六角塔身型で統一した形式であり、都内多摩地域に残る唯一の大名家墓所である。 塔身には臨済宗の重要な典籍である「碧巌録」からの引用がある。米津家は三河出身の徳川譜代の家臣で、初代田政は慶長九年(1604)から二十年間江戸町奉行を勤め、武蔵・下総・上総に五千石の領地を与えられた。二代田盛は大番頭を経て大阪定番となり、一万石を加増されて、 一万五千石を領する大名となった。 三代政武は弟田賢に三千石を分知し、自らは一万二千石を領して久喜に陣屋を構えて武蔵久喜藩が成立した。四代政矩は弟政容に千石を分知したため所領は一万一千石となった。七代通政は寛政十年(1798) 出羽村山郡長瀞村(現在の山形県東根
市)に所領を移された。門前村・神山村・前沢村(現在の東久留米市)、乙津村・上代継村・下代継村(現在のあきる野市)、木村(現在の練馬区)などが米津領であった。

何処までが場所なのかわからなかった





◆鎮守社





◆堂宇





◆石橋供養塔他、石塔

一番右が石橋供養塔。





六地蔵





◆地蔵





◆平和観音





◆山門






場所はコチラ