ぐるっとパスで入館♪
一度訪れたことがある。
2018/12/07 早稲田散歩 02 天祖神社/早稲田駅/落馬地蔵尊/龍善寺/地蔵/宗参寺/漱石山房記念館と漱石公園 - ovanの社会科見学
『新宿区立漱石山房記念館(しんじゅくくりつそうせきさんぼうきねんかん)は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館である。2017年(平成29年)9月24日に開館した。』
新宿区立漱石山房記念館 - Wikipedia
館内は撮影はOKなところがあったが、SNSなどには載せない事とあった。
原稿の草稿や弟子に送ったはがきなど、所縁のあるものが多数展示してあった。
また漱石の小説を読みたくなったなあ。
この地は、作家夏目漱石が明治四十年(1907)九月二十九日から亡くなる大正五年(1916)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。
漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は『坑夫』を皮切りに、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの代表作をこの地で発表し、『明暗』の連載なかばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。
漱石没後の大正七年(1918)には、漱石の婦人境子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。
その後、漱石山房は昭和二十年(1945)五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(1950)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和五十二年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(1976)にはその一部の漱石公園が、平成二十九年(2017)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
◆漱石公園
漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂かいわいが数多く登場します。漱石は、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?
漱石三房の記憶
夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。 そして大正5年12月9日、 『明暗』 執筆中に49歳で亡くなるまで、 多くの作品を生み出したのです。 漱石が晩年住んだこの家を 「漱石山房」といいます。 漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。 これが 「木曜会」の始まりです。 「木曜会」 は、 漱石を囲む文学サロンとして、 若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。
家主は医者で、ベランダ式の回廊や洋間がある広い家でした。奥の洋間に毯を敷き、机と座布団を置いて書斎として使いました。
<旧夏目邸建物基礎>
平成二十七年(2015)四月、漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石(ぼうしゅうせき)(凝灰岩)の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。漱石山房は、漱石没後の大正九年(1920)に境子夫人により立て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と回廊は敷地の南東隅に曳家し、母屋とは渡り廊下でつながれた。確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸母屋の遺構であると考えられる。
<猫の墓>
夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(1908)九月十三日で亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。
猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌に当たる大正九年(1920)夏目家で飼われた生き物たちを供養する為、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲(ゆずる)が造らせた九重塔で、台石には津田清楓(せいふう)の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(1945)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠(ざんけつ)を利用して昭和二十八年(1953)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。
古くに渡来した雄の木と雌の木がある落葉高木。細い枝が長く下垂(げすい)する。葉は披針形(ひしんけい)です。
新宿区立漱石山房記念館のHPはコチラ↓
新宿区立漱石山房記念館
場所はコチラ↓
休館日
月曜日 ただし、月曜日が休日の場合は、直後の休日でない日
年末年始(12月29日~1月3日)
その他設備維持のため等の臨時休館日
とありましたが、行かれるときはHPなどで事前にチェックしてから行ってくださいネ!
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2018/12/07 記事アーカイブ
平成29年に開館したばかりの漱石山房記念館に着く。
漱石公園は隣接する公園だ。
ぐるっとパスが使えた!
◆漱石山房記念館
中は復元された書斎や、漱石に関する資料が多数展示されていた。
だいぶ読んだと思っていたんだが、かなり未読なものがあった。
青空文庫にあるなら探して読んでみようと思う。
漱石ファンにはたまらない空間だね。
夏目漱石終焉の地
この地は、作家夏目漱石が明治四十年(1907)九月二十九日から亡くなる大正五年(1916)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。
漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は『坑夫』を皮切りに、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの代表作をこの地で発表し、『明暗』の連載なかばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。
漱石没後の大正七年(1918)には、漱石の婦人境子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。
その後、漱石山房は昭和二十年(1945)五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(1950)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和五十二年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(1976)にはその一部の漱石公園が、平成二十九年(2017)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
◆漱石公園
漱石山房の記憶
夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。
漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂かいわいが数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?
旧夏目邸建物基礎/猫の墓
<旧夏目邸建物基礎>
平成二十七年(2015)四月、漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石(ぼうしゅうせき)(凝灰岩)の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。漱石山房は、漱石没後の大正九年(1920)に境子夫人により立て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と回廊は敷地の南東隅に曳家し、母屋とは渡り廊下でつながれた。確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸母屋の遺構であると考えられる。
<猫の墓>
夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(1908)九月十三日で亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。
猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌に当たる大正九年(1920)夏目家で飼われた生き物たちを供養する為、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲(ゆずる)が造らせた九重塔で、台石には津田清楓(せいふう)の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(1945)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠(ざんけつ)を利用して昭和二十八年(1953)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。
新宿区立漱石山房記念館のHPはコチラ↓
soseki-museum.jp
場所は東西線早稲田駅から徒歩10分。
休館日は下記の通り。
①月曜日
ただし、月曜日が休日の場合は、直後の休日でない日
②年末年始(平成29年度は12月29日~1月3日)
③その他設備維持のため等の臨時休館日
※漱石公園は年中無休
変わるかもしれないので行かれる方は事前にHPなどチェックしてから行ってくださいね!