2018/01/07 四ツ谷散歩 04 参議院議員宿舎/清水谷/清水谷公園/衆議院議員宿舎/赤坂見附交差点

やっぱりまだまだ南下。
ホテルニューオータニの近くを歩く。
ここも人があまり歩いていない・・・。



参議院議員宿舎





◆清水谷




◆清水谷公園






 紀尾井町を南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上がった交差点の辺りは江戸時代から「清水谷」と呼ばれてきました。尾張屋板江戸切絵図にも「シミズダニ」と記されています。
 それは、周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。
 この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しました。





江戸水道の石枡と木管



 この石枡は、昭和四十五年(1970)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町3-2先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
 江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。玉川上水は、承応二年(1653)に着工され、翌承応三年(1654)6月に、羽村出身の清右衛門・庄内衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。この工事によって、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸で石樋や木樋もくひによる暗渠あんきょとなり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水されていました。
 発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。このように当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていました。この巨大な石枡は、江戸水道幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態をしのばせてくれます。
 なお、石枡とともに出土した木樋は、区立四番町歴史民俗資料館(千代田区四番町1)で保管されています。



贈右大臣大久保公哀悼碑



 明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
 また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三にしむらすてぞう、金井之恭かないゆきやす、奈良原繁ならはらしげるら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。




衆議院議員宿舎




赤坂見附交差点



 ここ赤坂見附交差点は、東京都内でも有数の商業・業務地区をひかえ多様な目的の交通が集中していますが、駐車場が不足していること等から違法駐車が慢性化するとともに、地下鉄赤坂見附駅が隣接してることもあり、多くの歩行者が横断歩道を利用して車道を横断していました。
 このような違法路上駐車や車道を横断する歩行者が、交通渋滞や交通事故の原因の一つにもなっていたため、建設省では、地元の方々と協力して、交通渋滞の緩和、交通事故の防止、歩行者の利便性の向上を目的に、共同溝工事により生じた地下空間を活用して、平成5年度より地下駐車場と地下歩道を一体的に整備し、あわせて交差点周辺部の歩道の整備を行いました。
 この整備の一部には、サントリー株式会社が寄贈したガラス再生タイル・ブロックが使用されています。




続く。