この日記のエリアから西巣鴨の駅に向かって北に進む。
この辺りも北区と板橋区の境界付近。
マハヤナ学園は、かつてこの付近にあった貧困層が多く住む「二百軒長屋」とよばれる地域に、社会事業家の長谷川良信(1890〜1966)によって創設された総合社会事業施設である。
長谷川は宗教大学(現大正大学)を卒業後、東京市養育院巣鴨分院に勤務し、闘病を経て、東京府事前教会の経済委員を委嘱され、1918(大正七)年五月開設の宗教大学社会事業研究室に迎えられた。この社会事業研究室は、わが国の社会事業研究・市職員養成の先駆的機関である。長谷川はこの年の一〇月、「二百軒長屋」に単身移住し、不就学の年少労働者たちを相手に夜学会を開設する一方、住民の身の上相談に応じていた。
翌年一月一五日、この活動は「マハヤナ学園」として組織化された。サンスクリット語の「大いなる乗物」を意味する言葉が冠されたこの施設は、その創立趣意書に謳われた「総合的組織的済貧計画」を実行すべく、仏教思想を根底とした社会事業を展開していった。
創立当初二部であった組織は、1932(昭和七)年には医療・保険・教育などを含む二二部にまで拡大し、日本社会事業の草創期において重要な役割を担った。
現在、長谷川の思想は、大乗聖徳学園、マハヤナ学園撫子園、また、遠くブラジルの地にまで受け継がれている。
◆すがも鴨台観音堂
大正大学に平成25年に完成した「さざえ堂」
僕はオクトパス君でチュー。
南三陸町の志津川湾で平和に暮らしていたけど、ある日津波で流されてしまったんでチュー。ぼくを拾ってくれた学生が机に置くと(オクト)試験にパスしたんでチュー。ぼくを撫でてくれると恩返しするチュー。
◆大正大学
◆千川上水分配堰碑
正面に「千川上水分配堰(ぶんぱいせき)」とあるこの碑は明治十五年(1882)七月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治四十二年三月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより利用者の取水量が定められていたことがわかります。
千川上水は、元禄九年(1696)に玉川上水 から分水された上水で左(南)側の道路が今は暗渠となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865)十一月、飛鳥山の西側(滝野川二−六付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。
明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ケ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙会社(しょうしがいしゃ)・大蔵省紙幣寮抄紙局)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、お互いに取水量を遵守するために、碑をここに設置しました。
◆千川上水調節池跡
千川上水は、元禄九年(1696)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面御江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の地域や人々と密接に関わってきました。
上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この付近を「堀割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865)に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。
明治十三年(1880)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6-9)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治15年建立)が残されています。
一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調整を行なっていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。
◆西巣鴨駅
ゴールの都営三田線西巣鴨駅。
台風が過ぎた後で風があったのでだいぶ歩きやすかった。
でもまだまだ暑いね(w
今回散策した場所はかなり以前来たことがある場所だったので、懐かしかった。
今まで散策した場所も何年か経って来てみたいなと思った。