2018/09/05 駒込散歩 06 地蔵通り商店街/巣鴨猿田彦庚申堂/庚申塚/延命地蔵尊/明治女学校之跡/大日堂/西巣鴨二丁目公園

この日記のエリアも西へと進む。
巣鴨から伸びる地蔵通り商店街に出てきたときはかなりビックリした。
かなり距離の長い商店街なんだね。



◆地蔵通り商店街




巣鴨猿田彦庚申堂





江戸の名所

 巣鴨中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
 「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば1657年(明暦3年)に造立されたものということがわかります。これより以前、1502年(文亀2年)に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。
 また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神分祀したという歴史的事実によるものです。



庚申塚

 庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説(さんしせつ)に求めることができる。 それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、六〇日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝(てんてい)に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。
 こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待(まち)が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
 さて、江戸時代の文化年間(1804〜17)に出された地誌「遊歴雑記(ゆうれきざっき)」によると、祠内に納められている庚申塔は明暦三年(一六五七)一月の江戸大火後に造られ、その際文亀二年(1502)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。
 その庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道折戸通りの交差地に位置し、天保年間(1830〜43)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。 現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の縁日帰りに立ち寄る人が跡を絶たない。






◆庚申塚

都電荒川線庚申塚電停




なかなかいいMAPだね。




延命地蔵






 江戸時代の中山道巣鴨庚申塚付近には、巣鴨町近辺で行き倒れた人馬の共同墓地があった。その墓標として延命地蔵が建立された。以来、さまざまな供養塔が集まった。
 かつてこれらの像は、現在の都電庚申塚駅の場所にあったが、明治四十四年(1911)、王子電気軌道(現都電荒川線)の停車場建設により移転された。その後、現位置に再移動し、大正期に参道と堂が整備された。
 昭和二十年(1945)四月十三日の空襲により、延命地蔵堂のすべての石造物が大きな被害をうけた。終戦後、土地の守り地蔵尊として信仰されている延命地蔵を再興するため、同三十五年に地元住民による奉賛会が発足し、毎年八月二十四日に法要が行われている。平成二十四年(2012)十一月、地域の民間信仰を示すものとしての重要性が評価され、豊島区登録有形民俗文化財となった。


徳本名号塔(とくほんみょうごうとう)(文政十一年再建)
 徳本は諸国を巡錫して各地に徳本念仏と呼ばれる念仏講を創成した僧である。独特な筆跡による名号と、徳本銘・花押が四面に刻まれている。

題目塔(だいもくとう)
 中央に「南無妙法蓮華経」、その左右に「大摩利支尊天」「北辰妙見大菩薩」を配置する三尊形式をとっている。塔の正面に「加越能佳人」「為道中安全」とあることから、北陸と江戸を結ぶ街道として中山道を往来した者が建立したのであろう。

延命地蔵塔(えんめいじぞうとう)
 延命地蔵堂の中心となる地蔵尊である。角柱型の安山岩に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏座像の地蔵が浮彫されている。現在は傷みが激しく、建立年代等を知ることはできないが、地蔵堂の形式などから、江戸時代初期のものであろうと推定される。

地蔵像庚申塔(じぞうぞうこうしんとう)
 この庚申塔については、かっては上部に日月があり、中央に地蔵菩薩立像、その下に三猿が描かれていたという明治期の記録がある。それによると、地蔵像の右に「是より小石川おたんす町之ミち」、左に「元禄拾一年戌寅四月十六日 諸願成就」の銘があった。

馬頭観音塔(ばとうかんのんとう)
 台座前面の銘は一部欠損しているが、もとは「馬頭観世音」とあったとみられる。側面には「巣鴨」「願主 馬口 藤三郎」とあり、巣鴨の住民が建立したものである。








◆明治女学校之跡




 明治女学校は、明治十八年(1885)に、麹町区飯田町(現千代田区)に、女子の「自覚と自立」の高等教育を目指して、木村熊二・鐙子夫妻、巖本善治、田口卯吉、植村正久、島田三郎らによって設立されました。教師には、津田梅子、島崎藤村、北村透谷などが名を連ねていました。
 明治二十九年(1896)に、校舎が焼失し、翌明治三十年(1897)、巣鴨村大字巣鴨660番地(現在の西巣鴨2丁目14・29〜31番)に移転してきました。移転時の校長である巖本善治は、女学校での実践教育の一方、『女学雑誌』で啓蒙活動を行いました。この雑誌から『文学界』が生まれ、浪漫主義文学を牽引していきました。
 卒業生には、新宿中村屋の創業者の相馬黒光自由学園創始者羽仁もと子、作家の野上弥生子などがおり、日本の近代史に名を残す多くの人材を輩出しました。
 しかし、巣鴨移転後の経営は苦しく、生徒数の減少もあって、財政状況が悪化し、明治四十一年(1908)に閉校することになります。
 閉校後、時代がくだると、明治女学校設立の意義を後世に伝える活動が行なわれるようになり、昭和三十七年(1962)に、巖本善治の生誕百年を記念して巖本記念会が設立され、地元の熱い要望を受けて、昭和五十六年(1981)10月18日に記念碑が建立されました。


巖本善治は染井霊園の時に触れた方。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180905/1536236629




◆大日堂



 この大日堂は、徳川幕府二代将軍秀忠(法名台徳院殿)とその婦人徳子(法名崇源院殿)に仕えた春海和尚により、承応二年(1653)に建立されたものであり、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。
 『御府内寺社備考』によれば、春海和尚は湯島天神下に所在した平等山真如寺宝性院(現台東区池之端1丁目)の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えた。秀忠と徳子の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行ったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村内のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したという。この像の台座には、秀忠と徳子の菩提を弔うために本像が造立された旨が、像立年月日の承応二年(1653)二月二十八日の日付とともに刻まれていた。
 明治三十八年(1905)、無我愛運動の提唱者伊藤証信は、機関誌『無我の愛』を発行するとともに、大日堂を「無我苑」と称し九箇月にわたって同志とともに自炊生活を営んだ。証信の提唱した無我愛とは、一つの宗教や思想にとらわれず、あらゆる宗教・思想の根源を究め、宇宙の絶対真理すなわち無我の愛を活動の根本にするものである。証信は昭和三十八年(1963)に死去するまでの約60年間この精神運動を続けるが、この大日堂での生活はその出発点となったのである。
 昭和二十年(1945)四月十三日の空襲により石造大日如来坐像は大きく欠損したが、後に頭部と両腕は補われた。現在大日堂は、地元の大日坊奉賛会の方々により大切に管理されている。




◆西巣鴨二丁目公園




続く。