2018/01/23 川崎散歩 09 一行寺/宗三寺/郵便差出箱(1号・丸形ボスト)/中の本陣/問屋場/京急川崎駅

いよいよ散歩も終盤。
京急川崎駅の脇を通り、JR川崎駅へ向かう。




◆一行寺

中には入れませんでした。




◆宗三寺






中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紉を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。




◆郵便差出箱(1号・丸形ボスト)






この郵便ポストは、以前川崎市立向小学校の構内に大切に保管されていました。東海道川崎宿を活かしたまちづくりを目的として、向小学校・川崎中央郵便局・砂子の里資料館のお力添えで、この場所に設置されていただきました。現在、川崎市内で使用されている丸形ポストはなく、丸形ポストの復活第一号になります。



◆中の本陣




 旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所など公的な施設をはじめ、旅館や商家など350軒程の建物が約1,400メートルの長さにわたって軒を並べ賑わいを見せていた。古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約七〇軒を数え、油屋、煙草屋、小間物屋、酒屋などが店を広げる一方、大工、鍛冶屋、桶屋ほか多くの職人や農民も移住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。
 もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂洲の徹高地上を通るよう配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。
 現在でも砂子から小土呂あたりを歩いてみると旧街道が周囲よりも幾分高いことがよくわかる。
 川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦一一(1761)年の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
 しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の街並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿の面影を見ることができる。



中の本陣

この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置することから、通称「中の本陣」とも呼ばれたが、江戸後期に至り、廃業した。




問屋場




伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場川崎宿では、約三〇名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめた。




京急川崎駅

京急とJRの駅は離れてるんだね。




JR川崎駅でゴール。
歩くのも疲れたが、日記に書くのはもっと疲れた(w
思い残すことがないくらい隅々まで観た!
・・・・はず(w