2018/01/27 葛西散歩 05 櫓橋/船堀中公園/お稲荷さん/旧船堀村役場跡/新川の碑/新川ポンプ所/西水門橋

中川に注ぐ新川にぶつかってからはその周辺をブラブラする。
新川はそんなに幅のある川ではなかった。



◆櫓(やぐら)橋

車は通れない、木の橋だった。














◆船堀中公園


「船堀中公園」整備にあたり

 船堀村の南を流れる川(現在の新川)は舟入堀と呼ばれ、やがて船堀川となったと伝えられています。
「慶弔十九年(1614)宇田川弥次右エ門初代、船堀村開発」と宇田川家の石碑に記述が残っています。宇田川、鈴木両氏が船堀開村時の草分けとの説もあり、この頃光明寺が開山され山王社(現日枝神社)が勧請されています。
 元禄の頃、現在の船堀中公園の西を流れていた水路(法然寺川)を境に西組と東組にわかれ、西組には稲荷社が鎮守として勧請され、西船堀の開発が進みました。
「新編武蔵風土記稿」(文政年間刊)には、「公へは船堀村とのみ書し東西の分ちなし、されど村内に西組、東組と分ちて自ら二村ノ如し」と記されています。
 明治二十二年(1889)の市政・町村制施行時に、西船堀村、東船堀村に現南船堀地区を合わせて船堀村としました。
 明治四十四年(1911)に着工した荒川、中川放水路の開削により、西船堀地区は約百四十町歩が買収され、約百十戸が移転し、稲荷神社も現船堀一丁目に遷宮されました。












◆お稲荷さん

狐さんがいらっしゃったのでお稲荷さんなのは分かるが、まったく情報を得られませんでした。












◆旧船堀村役場跡

google mapに載っていたので来てみた。
説明板も何もないのでここで合ってるかどうかは分からない。


wikiで調べてみた。
船堀村は1889年〜1914年まで存在した村。
1914年に荒川放水路(中川)設置に伴い西側半分が無くなったとのこと。
役場の跡地まではわからなかった・・・・。












◆新川の碑

新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から



 新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永六年(1629)に三角から新川口までが新たに開削されて、 全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。
 この新川は、銚子や行徳から年貢米、味噌、醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣の人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。
 明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れをなし、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、昭和十九年(1944)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。
 その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業排水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和四十七年(1972)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。
 まず、昭和五十一年(1976)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して安全性を向上させました。そして、旧江戸川から浄化用水を取り入れ中川に排水しています。
 一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込みきれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。
 平成五年(1993)からは念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。
 かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。












◆新川ポンプ所

WEBでの調べ方が足りないのか、情報が出てこない・・・・。
東京都下水道局の施設というところまでは判った。











◆西水門橋




この反対側には「新川排水機場」がすぐ見える。












続く。
※2021/11/21 レイアウト変更、加筆訂正しています。