神田明神北側の坂ばっかりのエリアから、西側エリアに移動。
湯島坂をのぼって御茶ノ水駅へ向かう。
蔵前橋通りのこの坂になってる部分を「新妻恋坂」というらしい。
◆滝沢馬琴住居跡(芳林公園脇)
『南総里見八犬伝』・『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした滝沢馬琴 は、江戸時代の劇作家として有名です。彼は、千代田区内に二ヶ所の足跡を残しています。
旗本松平信成の家臣のことして生まれた馬琴は、本飯田町中坂下(千代田区九段北一丁目5)の下駄屋会田家の養子となり、劇作家としての道を歩み始めます。
文政元年(1818)になると、息子宗伯が母と妹を連れて、当時、神田明神石坂下の同朋町東新道(どうほうちょうひがしじんみち)と呼ばれていたこと地に転居してきます。ここは、西丸書院藩士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する五十坪の土地で、十六坪の家屋が建っており、そこで暮らしました。のち、文政七年(1824)には、飯田町の下駄屋を婿養子に継がせ、馬琴もここに引っ越してきます。隣家を買収し、八十坪のの敷地として、書斎や庭園を設けています。外神田に住んだ時期の作品としては、大内・陶(すえ)・毛利の物語をまとめた『近世説美少年録(きんせいせつびしょうねんろく)』や、楠・新田氏による南朝再興の物語をまとめた『開巻驚奇侠客伝(かいかんきょうききょうかくでん)』などあります。
馬琴は、天保七年(1836)七十歳の時四谷信濃坂に転居するまでの十二年間を、ここで暮らしました。
◆校歌(芳林公園脇)
タイトルはただ「校歌」としか刻まれている。
目の前に区立昌平小学校があるので、そちらの校歌だと思われる。
上の校歌と滝沢馬琴住居跡は並んで建っている。
この後はまた聖橋を渡って御茶ノ水駅へ。
中央線で家路についた。
キツイ坂ばっかりでかなり疲れた!