この日記のエリアは、ほぼ荒川沿いに南下。
墨田区から江戸川区へ入る。
◆萬福寺
◆東墨田白髭神社
江戸時代から明治・大正にかけ、平井7丁目の荒川べりの木下川水門付近から旧下木下村(墨田区)にかけて梅屋敷があり、約300株の梅樹が植えられていました。昭和一〇年代までは、梅屋敷の形をとどめていましたが、現在面影は全くありません。
敷地はおよそ1町1反(約11000?)余りあって、大きなわらぶきの2階建ての建物が2棟と、長屋や煉瓦造りの建物などがありました。
江戸時代には徳川家が所有し、木下川村の名主村越家が留守居役として取り仕切っていました。安永・天明(1772〜89)の頃から梅見行楽の名勝地になったといわれています。
大正二年、荒川放水路の開削のため河川敷にかかり、旧墨田区吾嬬町東8丁目64番地と、旧中川の南側平井の地に3反歩ばかりが残りました。この平井の地は、昭和四二年一月一日、江戸川区に編入されました。
◆神社
google mapに載っておらず、現地でも何の神社なのか手掛かりが見つからなかった。
鳥居も壊れて入り口をふさいでしまっている・・・・。
真言宗豊山派で、清瀧山安全院と号し、開山は源理法印といわれています。本尊には阿弥陀如来立像を祀っていまず。
門前には遍照講(へんじょうこう)の建立した弘法大師と肉太で刻まれた石柱が立ち、門を入って左手の小堀をめぐらした中に弁天堂があります。
上野不忍池のほとりに住んでいたある商人の夢枕に弁天様が現れ、平井の池に弁財天を祀るようにとのお告げによって、明治一七・八年ごろに建立されたものです。
終戦後からこの弁財天に息災を祈願して、多数の檀信徒が集まり、大般若経600巻の転読と、節分護摩豆まき会をおこなっています。
山門は安永七年(1778)、円覚上人の代に建立されました。
■富士塚(江戸川区登録有形 文化財・歴史資料)
この富士塚は、明治一七年頃、境内の弁天池を拡張したときの土をもりあげて築いたと伝えられています。
昭和三五年頃まで、毎年七月一日の山開きに白い装束の
冨士講中の人々が参拝していました。
崇さ5メートルの頂上にある石(ネ司)(せきし)(浅間神社)は、□□(不明)十三庚虎六月吉日、氏子中」と刻まれているもので、文政一三年(1830)の建立と推定されます、
また、頂上南側の鐘撞(かねつ)き堂は、もと山の脇にありましたが、昭和四二年に、現在地に移築しました。
昭和六〇年には、塚の一部を改造して、弘法大師の石造を納めています。
富士塚の上に鐘楼が建っている。
参道に並んでいるのは神社と思われる。
確認が取れないので合っているかどうかはわからない。
◆もがみがわ
2回目の「もがみがわ」
最初に来た時はほとんど誰も居なくて気が付かなかったのだが、今回はお客さんウチら以外みんな吸ってて料理の味がわからなかった・・・・。