2019/02/16 上野散歩 06 延壽寺・日荷堂/蓮華寺/三浦坂/宗善寺/大名時計博物館/あかじ坂/旧谷中真島町

先程のエリアから北東方向に進む。
何度か来たことがある大名時計博物館周辺を歩く。
こんなにいっぱい史跡とかがあったんだね。。。



◆延壽寺・日荷堂




日荷堂「足腰病守護日荷上人安置之所」



 健脚の神様として知られる日荷承認が祀られる「日荷堂」は、宝暦5年(1755)身延山より日荷上人尊像を勧請し、以来、江戸の人びとの足腰の病平癒の祈願所として親しまれてきました。堂内には、健脚祈願や祈願成就に感謝した人びとにより奉納された幾つもの絵馬がかけられております。この絵馬群は平成8年(1996)に台東区の有形民俗文化財として登録されました。
 現在の日荷堂は、明治44年(1911)に再建されたものです。

  日荷上人「にちかさま」
 日荷上人が、「健脚の神様」「足腰病守護の神様」と呼ばれるようになった由縁は、ある夜、六浦妙法(日荷上人という損傷を授かる前の法名)の夢枕に仁王尊が現れました。
 「われは称名寺の仁王だが、改宗して身延山の守護神になりた。おまえの力でなんとか身延山に送り届けてほしい」とのお告げでした。早速そのお寺に「仁王をいただきたい」とかけあったのですが、聞き入れてもらえません。そこで一策。和尚が囲碁好きということを耳にした妙法は、仁王像を賭けた勝負を挑んだのでした。なんとか妙法が勝ち、約束どおり仁王を貰おうとするも、和尚は「あれは冗談」と取り合いません。さらには、「あんな大きい仁王を担ぎ出せる訳がない」とも。しかし妙法は山門から仁王尊ニ体を担ぎ出し、それらを背負うこと三日三晩。横浜の地から身延山まで、歩き通し奉納に成功したのでした。ことの次第を聞いた身延山の法王はたいそう驚き「日荷」の尊称を授けたそうです。日荷上人は人々の厄難、災いは背負い去り、福を授けるのです。(厄除け、方位除け)また足腰病守護、健脚祈願はもとより、現代社会の足である乗り物の交通安全、車体安全等にも霊験あらたかです。




 延寿寺は明暦二年(1656)に開創された日蓮宗寺院です。宝暦五年(1755)久遠寺に蔵されていた日荷像を勧請し、安永元年(1772)に日荷堂を建立して、本尊としました。
 日荷は武蔵国久良岐郡六浦(現横浜市六浦)の人で、日蓮の高弟、日祐の弟子となり妙法と号しました。六浦にて、自ら造立したニ躰の仁王像を背負い、一昼夜のうちに身延山久遠寺に運び上げ、山門に安置したと伝えられます。
 日荷堂の絵馬は、仁王像を背負い、六浦から身延山までの険しい道を歩いた日荷の健脚にちなんで、足病平癒の祈願のために奉納されたものです。日荷堂には現在、絵馬が75点、文字額が8点残されています。
 はきものの絵馬が残された寺社が多くありますが、この日荷堂のように種類・点数が豊富で、保存状態が良好なものは少なく、きわめて貴重です。
 延寿寺日荷堂絵馬群は平成八年(1996)に台東区有形民俗文化財に登載されました。



お稲荷さん



山門




蓮華寺




山門


富士松魯中之墓
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この方がわからないのでwikiで調べてみた。

富士松 魯中(ふじまつ ろちゅう)は、新内節(ただし初代が活躍した当時は富士松派は鶴賀新内の鶴賀派と疎遠状態だった為に新内節とは言わず富士松節と称した)の太夫名跡。』

太夫(wiki調べ)
太夫(たゆう)とは、遊女、芸妓の位階。最高位である。 』

新内節(wiki調べ)
新内節(しんないぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。浄瑠璃豊後節から派生したが、舞台から離れ、花街などの流し(門付け)として発展していったのが特徴。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受け、隆盛を極めた。』


調べれば調べる程わからない言葉が出てくるね・・・・・・。





◆三浦坂




坂の途中にあった謎のお店・・・。



『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治五年(1872)から昭和四十二年一月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。『東京府志料』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。




◆宗善寺





◆大名時計博物館

こちらは2度中に入ったことがある。
今回は中に入らなかった。

前回来たときの日記はコチラ↓
ovanrei.hatenablog.com







勝山藩下屋敷

勝山藩を調べると三つ出てくる。
安房勝山藩 - 安房国勝山(千葉県安房鋸南町)に藩庁を置いた藩。のちの加知山藩。
越前勝山藩 - 越前国勝山(福井県勝山市)に藩庁を置いた藩。
美作勝山藩 - 美作国勝山(岡山県真庭市)に藩庁を置いた藩。のちの真島藩。


この3つのうち「美作勝山藩」のようだ。
勝山藩(かつやまはん)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩。藩庁は勝山城に置かれた。高田藩(たかだはん、たかたはん)、美作高田藩(みまさか たかだはん、みまさか たかたはん)とも称される。藩主家は三浦氏。
勝山藩は岡山県旧真島群2万3千石の藩主。



◆あかじ坂(明治坂)




google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。

調べると・・・・。
『この坂上に明治の大財閥渡辺銀行の創始者明治屋治右衛門の屋敷があり、この坂も明治(あかじ)"と呼ばれた。』
と、あった。




◆旧谷中真島町




 江戸時代末の本町一帯は武家屋敷地であった。美作国(みまさか)(現在の岡山県)真島藩下屋敷があったのもこのあたりである。藩主は二万三千石を領する三浦氏で慶応の頃(1865)藩名を勝山藩から真島藩にかえた。真島は美作国の郡名で、勝山はその真島郡の一地名であったことから、郡名をとって真島藩にあらためたものである。
 本町は明治五年(1872)に真島藩下屋敷と周辺の武家屋敷を合併して誕生した。町名は真島藩にちなんでいる。
 この付近は上野台地から愛染川流域の斜面にあたることから坂が多い。そのうちのひとつが臨江寺裏から宗善寺へ上がる「三浦坂」。そして三浦坂を登るとそこに「大名時計博物館」がある。江戸時代初期に作られた櫓(やぐら)時計をはじめ、枕時計、印籠(いんろう)時計など六十点が展示されている。



続く。