お休みの予定だったが勝どきで仕事が入った。
短い仕事だったので勝どきを少し散策。
駅周辺をぶらり。
◆つき志まばし
橋名板に「つき志まばし」とあった。
月島橋で良いみたい。
月島川水門とあった。
◆十返舎一九(じっぺんしゃいっく)墓
江戸時代後期の戯作者として知られる十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は、本姓を重田といい、昭和二年(1765)駿河国(現在の静岡県)に生まれました。その後、江戸に出て日本橋の出版業者・蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)のもとで黄表紙(きびょうし)を発表し、以後多くの黄表紙・洒落本を書きました。中でも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどり着くという旅行記の形式をとる物語です。この作品は続編に続編を重ね、一九の代表作となりました。
一九は、天保二年(1831)に没し、浅草永住町(現在の台東区元浅草)の東陽院に葬られました。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移されています。
なお、墓石には次の辞世の句が刻んであります。
此の世をは とりやお暇に 線香の
煙とともに 灰さようなら
一九の墓は、区の歴史や文化に関わりの深いものとして中央区民文化財に登録されています。
◆東陽院
山門脇に上記の十返舎一九(じっぺんしゃいっく)墓がある。
徳川家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(現大阪市西淀川区佃 田蓑神社)の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉献し江戸へ下りました。寛永年間に幕府より賜った江戸湊入口の干潟の築島が完了し、正保三年(1646)その地に住吉神社が鎮座しました。(現佃一丁目)
その後、月島地域の埋立が進み、氏子区域の拡大に伴い勝どきに遥拝所が設置されました。例祭ではこの御旅所に一晩宮神輿が据え置かれます。
住吉神社は佃・月島・勝どき・晴海・豊海の地域を護る氏神様として、多くの方の崇敬を集めています。
続く。