2022/02/01 神田散歩 04 神田消防署鍛冶町出張所/神田紺屋町(南部)/千代田区立今川中学校跡/北乗物町/東紺屋町歩道橋/金山神社

神田駅周辺から北上。
秋葉原駅へ向かう。



◆東京消防署神田消防署鍛冶町出張所









神田紺屋町(南部)

 この界隈は、慶長年間(1596年~1615年)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門(こんやがしらつちやごろうえもん)が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになったのです。
 江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
 町内には古くから藍染川(あいぞめがわ)という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。「狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(あさぎ)なり」などの歌が詠(よ)まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
 万治年間(1658年~1661年)、あるいは天和年間(1681年~1684年)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町(かんだみくらちょう)、神田東紺屋町神田西福田町)に火除地が設けられました。明暦(めいれき)三年(1657年)の「明暦の大火(振袖火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には掘割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀」と呼ばれるようになったそうです。











千代田区立今川中学校跡

google mにあったので来てみた。
廃坑の跡だね。











◆北乗物町



 神田駅の東側には、古い町人町の面影を残す町名が目につく。鍛冶町)、紺屋町)、北乗物町)。そしていまは消えたが、塗師町(ぬしちょう)、鍋町なんていうのも戦前の頃まで、現在の鍛冶町の領域のなかにあったという。地図を眺めたり、町を歩いたりしているときに、こういった町名表示に出くわすと、往時のにぎやかな職人町の風景が想像されてきて楽しい。
 子どもの頃から地図好きだった僕は、千代田区の地図に初めて「北乗物町」の名を発見したとき、電車やバスの工場や車庫がずらりと建ち並んだ“乗物の国”のような世界を思い浮かべた。神田というと、須田町に交通博物館があるから、そういう連想が働いたのかもしれない。しかし「乗物町」の名は、調べてみると江戸時代に発生したもので、いろいろな説があるようだが、駕籠(かご)職人がこのあたりに住んでいたらしい。
 なるほど、中央区の領域にはなるけれど、近いところに小伝馬町、大伝馬町、馬喰町といった、馬を使った運送業者に由来する町がある。この一帯が古くからの交通の要所だったことが偲ばれてくる。
ちなみに、北乗物があって「南」はないのか?と思われる方もいるだろうが、南乗物町というのも戦前までは存在していたようだ。
 小さな北乗物町の界隈を歩いてみると、さすがにいまは駕籠屋の面影を残すような家はない。車関係のオフィスや工場が目につくこともない。ただし、ビルの狭間に小さな町工場がぽつぽつとあって、「北乘物町」と旧字体で綴った昔の町名表示板がいまもそのまま張り出されている。
 ホーロー引きの古めかしい看板に記された「乘物」の文字に、僕は幼い頃に親しんでいた“ブリキの自動車”の光景を重ね合わせた。










◆東紺屋町歩道橋

下は昭和通り
上は首都高速1号。














金山神社

以前来たことがある。
2017/06/20 日本橋散歩 01 金山神社/小伝馬町牢屋式展示館/身延別院/十思公園 - ovanの社会科見学



 古典によれば二柱の御祭神は伊勢に鎮座される天照大神の御兄姉神にあたられ、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司られる祖神と仰がれ給い、御神徳は洵に広大無辺にして、剣の神感からは破魔除災の神として、亦金宝の霊感を以って厚く金運招福の神と崇敬されてきた大神様にあらせられます。
 我が金属業界の遠い祖先等は、この高き御神徳を敬仰して、総本宮にまします岐阜県不破郡鎮座の元国幣大社南宮大社より御分霊を奉遷して、各地に金山神社を創建奉祀して来た処、東京金物同業組合に於いても昭和年代の初頃より御分霊を組合事務所に奉斎して厚く崇敬の誠を捧げてきました。併し第二次大戦の災禍に遇って祭祀中止の止む無き仕儀と成りましたが、崇敬心聊かも変わることなく平和の世を迎えるに及んで、直ちに業界挙げて神社再建の計画を興し、広く奉賛会を結成して由かり不快この地を鎮座地に選び定め、昭和27年秋10月新たに総本宮より御分霊を奉迎して假殿に奉安申し、社殿造営工事は着々と進められ、二ヶ年に及ぶ歳月をかけて目出度く本殿以下現社殿の諸工事を竣工致しました。昭和29年11月8日、由緒不快鞴祭の吉日を卜して御鎮座奉祝の大祭を盛大に斎行なし、以来宗教法人の神社として年々の祭儀を厳粛に奉祀して今日に至りました。
 茲に御鎮座30周年の意義深き年を迎えるに当り帝都中枢の地に鎮座される金山神社の御神徳愈々御栄えまし敬い奉る業界の末永き和協共栄をひたすら祈念して、謹みて御由緒記を建立いたす次第であります。











続く。