2022/06/26 番町散歩 01 パレスサイドビル/牛ヶ淵/九段坂/弥生慰霊堂/田安門/靖国神社/壬生藩鳥居家上屋敷跡/塙検校和学講談所跡


24時間勤務アケで、職場から九段下経由で市ヶ谷まで散歩。





パレスサイドビル

散歩スタート。
今回は西口玄関。











◆牛ヶ淵











◆九段坂













弥生慰霊堂




昭和天皇御野立所



 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東地方一 帯に大地震が発生した。死者、行方不明者十四万人、家 屋の全壊、焼失五十七万戸、罹災所帯六十九万に及ぶと いうわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の 噂すら流れたほどであった。
 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然ト シテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハ ヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ 図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を 明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊 ばされた。
 それより六年有余の歳月と七億円(昭和五年度一般会 計歳出十六億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきた が、漸く復興が成り、昭和五年三月二十六日皇居前広場 に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式 典が盛大に挙行された。
 昭和天皇は、これに先立つ二十四日、被害の甚だしか った下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ば された。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。 当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長 年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は 嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そ こで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所 記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。












◆田安門











靖国神社










◆壬生藩鳥居家上屋敷

現地では説明版など見当たらなかった。



google mapマークの位置は上の写真のところあたり。
念のため古地図もチェック。



青い線、ひし形の敷地内に「下野佐野藩(栃木)野田左京亮正頌」とある。
ちょうど上記の場所だと思われる。

『壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。 』
壬生藩 - Wikipedia

『佐野藩(さのはん)は、下野国安蘇郡の佐野(現在の栃木県佐野市)周辺に存在した藩。江戸時代初期には、中世以来の当地の豪族である佐野氏が3万9000石を治め、佐野城(現在の佐野市若松町)を築いて城下町を整備したが、1614年に改易された。その後1684年に譜代大名堀田氏出身の堀田正高が1万石の大名となり、佐野陣屋(現:同市植下町)に藩庁を置いた。堀田家は間もなく近江国堅田藩に移されたが、1825年に堀田正敦が居所を父祖ゆかりの佐野に戻しており、佐野藩が「再興」されたとみなされる。堀田家の佐野藩は廃藩置県まで続いた。 』
佐野藩 - Wikipedia

『栃木県下野 → 大田原藩 黒羽藩 喜連川藩 烏山藩 宇都宮藩 壬生藩 佐野藩 吹上藩 足利藩 』
栃木県は、元々何藩になるのでしょうか? - http://onjweb... - Yahoo!知恵袋











◆塙検校和学講談所跡


塙保己一和漢講談所跡

 塙保己一は、 武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の出身の学者で、若くして目が不自由となりました。
 江戸に出て、最初は音曲(おんきょく)などを学びましたが、次第に学問に励むようになります。
 1793年(寛政5年) に裏六番町通 (現在の四番町4番地) に和学講談所を設立しました。 1805年 (文化2年)になると、裏六番町の屋敷が御用のため収公され、代わりに表六番町通(現在の三番町24番地)に移転しました。
 和学講談所では、日本の古文献が広く調べられ、集大成となる 「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」が編纂されました。












続く。
2022/06/26 番町散歩 02 佐野善左衛門宅跡・御厩谷坂/川喜田半泥子旧居跡/『明星』発祥の地/一口坂/歯の供養塔/市ヶ谷門跡/市ヶ谷駅 - ovanの社会科見学