2023/02/03 ひばりヶ丘・武蔵境散歩 07 石橋供養塔/武蔵野大学/文字庚申塔/千川歩道橋/武蔵野運動場/招魂塔

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/02/03/200000




◆石橋供養塔



 五日市街道と千川上水が交わるこの地に、古くから橋が架けられていた。 この橋は井口橋と称し、修補を加えながら人びとに利用されてきたが、 天保十二年(1841) 八月に至り、関前村々民の総意
に基づき、さらに近隣諸村の助成を得て石橋に架け替えられた。この石橋供養塔は、その完成を記念するとともに、石橋を供養するために建てられたものである。橋の供養は悪霊の侵入を防ぎ、神を慰めるとの願いを込めたもので、これにより当時の人びとの橋に対する思いの一端が知られる。 本市内ではこの種の供養塔は現存する唯一のものである。
 なお、かたわらの庚申塔については、制作年代が天保十一年(1840)二月であること以外、願主の名前・由来などの詳細がま まったく不明であることを付記しておく。






武蔵野大学武蔵野キャンパス

『学校法人武蔵野大学が経営。1924年、仏教学者である高楠順次郎博士が築地本願寺内に武蔵野女子学院を創設。その後、千代田女学園運営による千代田女子専門学校を引き受け、1950年に武蔵野女子短期大学を開校。1965年、前身の武蔵野女子大学が創設された。2003年、校名を武蔵野大学に変更。2004年、共学となった。
浄土真宗本願寺派により設立された「仏教精神による人間教育」を目指した学校であり[6]、近年は少人数教育とキャリア開発に力を入れ、学部学科の増設や改組を行っている。
名称が類似する武蔵大学武蔵野短期大学、武蔵野美術大学武蔵野学院大学武蔵野中学校・高等学校武蔵野学院大学の附属校)とは別法人。
龍谷総合学園加盟校。
本願寺の鏡如(大谷光瑞)は益田孝の勧めで、料紙の美しさで知られる平安時代の和歌冊子「西本願寺本三十六人家集」の伊勢集と貫之集下を1929年(昭和4年)に売却し、女子宗教大学の設立資金に充てた[8]。冊子はページ毎に裁断、1組10枚の32組で売りだされ、1組2万円の値がついたという。これら断簡は「石山切」と名付けられている。
2015年度、4学期制を導入。 』
武蔵野大学 - Wikipedia






◆文字庚申塔



 現新町の全域は、江戸時代の享保九年(1724)から上保谷新田として開発された新田村でした。それから六十年後の天明四年(1784)九月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。 塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。 塔正面の左脇に、他の庚申塔には例を見ない「五穀成就」と彫られています。 村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明三年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明四年は関東各地にその影響が及びました。 村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。
 塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子「」 (ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像容の一部を表現しています。 天明四年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。






◆千川歩道橋

下は五日市街道。




お花シリーズの歩道橋だった。





健康保険組合 武蔵野運動場

上記の千川歩道橋から。
三菱UFJフィナンシャル・グループMUFG)の社有地とのこと。
工事が終わると一般に開放するとのことだった。

参考
西東京市に「MUFGパーク」オープンへ 「武蔵野運動場」を改修、2年後に一般開放 「地域と利用者に居心地のよい場を創っていく」 – ひばりタイムス





◆招魂塔



 塔身の正面に「招魂塔」とあるだけで、造立の趣旨をなにも記していませんが、品川県社倉門訴(しゃそうもんそ)事件の犠牲者の慰霊碑と考えられます。
 門訴事件は、品川県が強行した社倉米金納化(しゃそうまいきんのうか)に反対する武蔵野新田十二ヶ村の農民が明治三年(1870)一月十日東京浜町の県庁に集団門訴を行った事件です。上保谷新田にも獄死者と釈放後の病死者が出ました。
 この塔は新田の「総村中(そうそんちゅう)」が建立しました。






続く。
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