2023/10/05 祥應寺


『祥應寺の前身は鎌倉時代、伝祥應寺跡(国分寺市西元町・黒鐘公園北方)に起こる。開山由緒は不明であるが跡地から板碑が発掘されており阿弥陀信仰の盛んな寺院であったようである。
江戸時代の地誌(武蔵名勝図会)によると、地元の住民が跡地から鉄の阿弥陀像二体を掘り出し、のちに府中の六所宮(大國魂神社)に阿弥陀堂を建てて祀った。鉄(くろがね)の仏が掘り出されたことからこの地を「黒金」と呼んでいる。祥應寺の山号はこの地名に由来する。
享保2年(1717年)、国分寺村名主本多家が廃寺となっていた祥應寺の再興を発願。黄檗宗の僧恢門道頂禅師を懇請し再興した。 江戸幕府八代将軍徳川吉宗享保の改革にともない、国分寺村名主本多三左衛門の子、儀右衛門と仲右衛門の兄弟によって本多新田(現・国分寺市本多)が開拓される。 享保11年(1726年)、住民の菩提所を設けるにあたり祥應寺の引寺が許され、祥應寺は万葉植物コノテガシワの古木とともに跡地から現今の地に移され今日に至る。 』
祥應寺 - Wikipedia





黒金山祥應寺再興三〇〇年記念碑
 本寺は鎌倉中期国分尼寺跡(国分寺市西元町・黒鐘公園)の北丘に起こる。開山由緒は不明であるが、阿弥陀信仰の盛んな寺院であった。ある時、古址より本尊と思われる阿弥陀さまの鉄仏が掘り出され、黒鉄(くろがね)のお姿であったことから村人はかの地を「黒釜(黒鐘)」と称す。鉄仏は六所宮(大國魂神社)に遷座したのち、明治期の神仏分離により他の寺院に移された。
 享保二年(1717) 国分寺村の名主本多儀右衛門が古址本寺の再興を発願。黄檗宗の僧門道頂禅師を再興開山に懇請し、寺社奉行より許可を得る。享保十一年(1726)本寺を本多新田の菩提寺とするべく、本寺初代太洲元皓禅師、ならびに新田開発者によって古址より現今の地に遷され、古址に肖り山号を「黒金山」と号す。 時おなじくして万葉集で詠まれる「児の手柏」の古木が古址より移植され、一本は境内に現存し、枯死の一本は地蔵尊となり昭和七年(1932)に開眼した。
 本寺の伽藍は、再興当初は小規模の観音堂であった。文政九年(1826) 本寺重興紫雲達瑞禅師、ならびに村人の奉公により木造本殿が建立されたが、昭和十六年(1941)に焼失。本殿を再建すべく本寺中興英信仁宗禅師、ならびに檀信徒の尽力により昭和二十七年(1952)に鉄筋造本殿が建立された。
 平成二十七年(2015)本寺は再興より三〇〇年を迎えるにあたり、老朽化や耐震構造の問題をかかえた本殿を再建すべく、かの痛ましき東日本大震災の苦境を経て現住晴敬智俊禅師、ならびに檀信徒の敬虔なる菩提心と浄財を基に本殿再建、山門新築工事の大事業を成就した。同年五月吉日、黄檗宗管長猊下大導師のもと盛大に落成慶讃法要が厳修され、本寺は黄檗宗大本山より別格地の寺格を賜り今日の偉観をあらわした。
 然れば、本寺開山、再興より関わる先人の労苦と遺徳を偲び、往古より伝わる阿弥陀信仰の板碑(古址より出土したうちの二基)を復原するとともに茲に謹んで記念碑を建立するものである。





◆大願堂





◆祥應寺のコノテガシワ



祥應寺の児の手袖
 児の手相は松と同様に常緑で常を落とさず茂ることから「百木の長」(史記 亀策列伝)とか「命を地に受くるもの、ただ松柏のみ独り正しく、冬夏に青青たり」(荘子 徳充符篇)というように中国の古代書に登場する。日本では奈良時代万葉集に詠まれ、平安時代には興葉家によって党の手柏の種子(柏子仁)を漢方用として栽培されていた。
 祥応寺の児手柏は享保十一年(1726)に武蔵国分尼寺跡の北方に位置した伝祥應寺か現在の地に移植され、樹齢は六〇〇年以上、日本最大かつ最古で希少かつ貴重なものである。
 児の手はもともと日本に自生しておらず祥應寺の児の手柏は大昔に誰の手によって運ば
れたのか、歴史的浪漫を感じうるものである。





◆板碑



建立    年代不明
石材    緑泥片岩 (秩父青石)
型式    武蔵型
種子    阿弥陀如来 (梵字)
由来
武蔵型板碑は、おもに関東地方で鎌倉時代から室町時代に集中して広く分布した供養塔です。 扁平の緑泥片岩 (秩父青石) のもので、頭部山形、下に二条線、身部は蓮台の上に仏画または梵字が刻まれているのが武蔵型板碑の特徴です。
武蔵の豪族達の間に信仰された阿弥陀浄土への願望から、 先祖供養や、逆修という生前供養として建立されたものが多いようです。





◆石塔

真ん中は庚申塔だね。
他の2塔をご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>





◆柳

ものすごく立派!





◆山門





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